メインカルチャーとサブカルチャーの位相

近年、物凄い勢いでメインカルチャーサブカルチャーが入れ替わっているのはよく言われる事だと思うが、その要因とは何だろう。
おそらく元来カウンターカルチャーが根付く風土とは言いがたく、輸入されたカウンターカルチャーは形骸的なサブカルチャー化した形でしか根付かない日本において、真にカウンターカルチャー足りえたのはメインカルチャーだったという矛盾が発端ではないのか。
メインカルチャーに対抗するはずのカウンターカルチャーサブカルチャーが育たない状況において、メインカルチャーに対抗するのは同じメインカルチャーのみだったのだろう。
となると、これはもうメインカルチャー内の内乱で自己衰退していき、自己告発をする次元ではなかったサブカルチャーがそれに代わり台頭したという結論で終わってしまう気がするが。
(特に文学の衰退などはまさにこの通りの現象が起きたと言えよう。もちろんそれが要因の全てではないだろうが)
またメインカルチャーの衰退とサブカルチャーの台頭を加速させたのが、インターネットなどの新しいメディアを始めとする情報伝達の発展だったのではないかと考える。
あらゆる情報が容易に手に入る中、文化的成熟度の高いメインカルチャーはその成熟を加速させよりハイカルチャーとしての様相を呈していくのに対し、情報の発生と伝達が容易になった社会では様々なサブカルチャーが生み出され、またそれらがより成熟していない段階で関わる事が可能になるのだ。
つまり極単純な話として、情報過多により敷居が際限無しに高くなっていく状況においては、成熟度の高い文化ほどその敷居の高さ故に人が付かず、現実的労力を考えた場合、比較的新しく情報蓄積が少ない文化にしか参入する事が出来ないのではないだろうか。
元々文化とはそういった物だが、その情報蓄積速度が一個人に処理仕切れない程の量となってしまったのであろう。
元々カウンターカルチャーとしての側面を殆ど持たない日本のサブカルチャー市場において、消費は前提であり、これは大変都合の良い事だったのだろう。
メインカルチャーが同じメインカルチャーに対してのカウンターカルチャーとして自問し続け、また情報伝達の発展によりその敷居を高くし続けている間に、サブカルチャーは容易に生産と消費というループを繰り返し、いつしか単体での文化的価値は存在しなくともサブカルチャー総体としての生産と消費の蓄積という文化を手に入れたのだ。
極論を言えば、これは従来の文化とは異なる存在である。その意味で、文化とは言いがたいのかもしれない。だがこれこそが新しい情報過多時代の文化のあり方であり、個々の文化性よりも総体としての文化こそが尊重されるのが、これからの文化のあり方なのかもしれないのだ。


本当はもっと長くなる予定だったが、書いてて自分でもわからなくなってきたので強引にまとめて終了。