冬の食べ物といえば? という質問に対し多くの日本人が答えるであろう鍋料理。
文化体系の違う人々からすれば考えられない料理なのかもしれない。
多くの具材を一緒くたに鍋で煮込んで、それぞれ個別に取り分けるでもなく、そこからほぼ直に各人が食べるのだ。
中華料理の大皿のような物である。
おそらく潔癖症の人間には耐えられない行為なのではないか。
そういえば過去、鍋や焼肉など、少しでも他人の箸がつく可能性のある食べ物は他人とは一緒に食べられないという人と会った事がある。
それを考えると、自分は全くもって無頓着な人間で良かったなぁと思う。
大げさな話になるが、繊細な、細かな事に気がつく人ほど、より苦しみ、より傷つくのだろう。
鍋を食べられる人間の多くは、相手から教えられるまで、世の中に鍋を皆でつつく事が苦痛な人間がいる事に気付かない。
自らがそれを苦痛と思わない人間は、それを苦痛だと感じる人の気持ちを想像する事は出来ても、永遠に理解する事は適わない。

もちろん、傷つく事が嫌で、自ら無頓着になっていく人もいる。傷つく事に耐えられないなら、傷つかないフリをするしかない。そしてそのフリはいつしか自らをも騙し、本人すらも傷ついていないつもりになっていく。

だがこれは喜びや楽しみといった正の感情もまた同じである。
そこにある苦しみに気付いてしまう人ほど苦しみ、気付かない人にとってはその苦しみは存在しないのと同じで、そこにある喜びに気付く人ほど喜び、気付かない人にとってはその喜びは存在しないのと同じなのだ。
醜い物を見ないですむように目を瞑れば、等しく美しい物も見えなくなる。
それでも、目を瞑ったままでも美しい物だけを求める時、瞼の裏に想像された架空の美しさのみを見つめ続けるしか術はないのだろう。

幸い僕は鍋に限らず、食べ物に関しては苦手な物が特にない。その意味で苦しまずに済んでいる。
だが同時に僕には、苦手な物がない故に気付かない何かが必ずあるのだろう。
それはひょっとしたら、とても美しい物を見過ごしているのと同じなのかもしれない。

鍋を食べられる人は、食べられない人の景色を見る事は出来ない。
そしてまた鍋を食べられない人は、食べられる人の景色を見る事は出来ない。
両者共に互いの事を想像の範囲でしか比較できない以上、そこに優劣は存在しないのだろう。
だが、それでも、隣の芝生は青いのだ。