現存する一番古い過去嘘日記

 キャッチボールには嫌な思い出がある。
 僕には子供の頃、あまりキャッチボールをした記憶がない。外で遊ぶよりは、一人で黙々と本を読んでいるような、そんな子供だった。例えば親戚の家に一日預けられたとき、大抵の叔父叔母が「いい子ね」と言うような、そんな子供だった。もちろんその前には「手が掛からなくて」という一言がつくのだが。
 そんな性格だったから当然少年野球チームにも入っていなかった。七つ離れた兄とは一緒に遊ぶようなこともなかったし、父親と休日にキャッチボール、なんて事もなかった。
 それでも、キャッチボールには嫌な思い出がある。
 あれは僕が十五歳にったばかりの頃だったと思う。その頃僕には、遅まきながら(本当に遅すぎるのだが)キャッチボールフレンドなるものを手に入れていた。同世代の友人達はとうにその単純な遊技をやめ、クラブ活動に精を出したり、いかに女の子の気を引くかといったことに必死になったりしていた時期だった。
 僕自身今考えれば驚きなのだが、そのキャッチボールフレンドとは僕より二つか三つ年上であろう女の子だった。
 僕は彼女と毎週のように近所の公園に赴き、フェンスに仕切られた一角でキャッチボールをしていた。
 彼女は常々「男の子に生まれて、兄弟や父親とキャッチボールをしてみたかった」と言っていた。彼女には一緒にキャッチボールができるような父親も、兄も弟もいなかった。
 いつだったか、キャッチボールを終えた後、彼女が母子家庭だということを僕は知った。もちろんその事について詮索する気もなかったし、なぜ母子家庭になったのかなんて僕にはどうでもいいことだった。
 同世代の多くの友人達がそうであったように、当時の僕も性というものを意識し始めていた時期で、その時期に異性とキャッチボールという形であれども遊べるというのは、それだけで彼女の家庭環境を些事と呼んでしまえるほどの魔力を持っていた。それに家庭環境のことをいうなら、僕だって似たようなものだ。
 今考えると僕は本当にキャッチボールがしたかったのか、ただ彼女と遊びたかっただけなのか、はっきりとしない。
 「ねぇ、一人でボール投げてるなら、キャッチボールしようよ」
 季節はもう冬に差し掛かろうかという時期だったと思う。太陽が早退前に慌てて夕焼けにしたような、そんな空だった。
 僕の足下から伸びた影は、フェンスの向こう側まで達していた。
 一人で壁に向かってボールを投げる僕に、彼女は声をかけてきた。今思えば、なぜあの時オーケーしたのだろう。彼女が美しかった事も関係しているかもしれない。でもそれ以上に、彼女からある種の暖かさ、優しさのような物を感じていたと思う。おそらくそれは僕が記憶していない母の香りだったのかもしれない。
 それから僕と彼女はキャッチボールをするようになった。次の日、僕が夕方公園に行くと、彼女がやって来た。そうして僕らはキャッチボールをした。
 それからも彼女は僕が公園でボールを投げているとやってくるようになった。もちろん毎日来ていたわけではないと思う。僕も毎日公園に行っていたわけではない。ただなんとなく公園に行った時に、お互い一緒になったらキャッチボールをしていたというだけの事だ。
 なんとなく――本当にそうだろうか。少なくとも僕は、彼女とキャッチボールをするのが楽しくて、彼女に会いたくて公園に行っていた。
 別に毎日会う約束をしていたわけじゃない。時間を決めて約束していたわけじゃない。いつ彼女が来なくなっても不思議ではなかった。でも、彼女は僕が行くと必ずそこに現れた。
 彼女とキャッチボールをするようになって三ヶ月程たった頃だろうか、彼女が突然僕に、もう来れないと告げた。
 僕は理由を聞かなかった。おそらく高校生である彼女が、今まで僕とキャッチボールをしていた方がおかしいのだ。それに僕だって今年は高校受験がある。いつまでもこうしてキャッチボールが続くなんて、思っていなかった。
 何も言わない僕を見て、彼女は「ごめんなさい」と謝った。キャッチボールが出来なくなる事に対する謝罪だと思い、僕は「気にしないで」と返した。
 だが、彼女の謝罪は止まらなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
 彼女は泣いていた。大粒の涙が、公園に敷き詰められた砂利に何度も何度も吸い込まれていった。僕はそれを、綺麗だと感じていた。
「もう、いいから。本当に、気にしないで」
 彼女になんと声をかければ良かったのだろう。僕が何を言っても、彼女は泣きながら謝り続けたのだろうか。もっと上手い言葉をかけてあげられれば、彼女の涙を止めることが出来ただろうか。
 そのまま彼女は、泣き止むことなく帰っていった。僕は一人公園に残され、彼女の涙の訳を考えながら、地面に残った彼女の涙の後をただ見つめていた。
 それから何年か後、父が僕に母の話を切り出してきた。
 僕の母を、僕は覚えていない。僕の母。僕が幼い頃には、確かに僕の家にいた存在。
 父の話は、ある程度予想していた通りの話だった。僕が幼い頃、母には父以外の恋人が出来て、父と離婚したこと、僕と父を残して家を出て行ったこと。ショックじゃないといえば嘘になるが、ある程度覚悟していた話だった。ただ一つを除いては。
 話の最後に、父は母の写っている写真を持ち出してきた。そこには若い頃の父、小学生の兄、おそらく僕である赤ん坊、おそらく母である女性、そして、四歳くらいの女の子が写っていた。
 父はその女の子を指差して、こう言った。
「お前は覚えていないだろうが、お前の姉さんだ。姉さんは、父さんと母さんが離婚する時に、母さんに引き取られていったんだ」
 ――彼女だ。一目見た瞬間、そう感じた。
 写真に写っている女の子は、紛れも無い、僕のキャッチボールフレンドだ。この子を成長させていけば、間違いなく僕があの日公園で見た彼女になるだろう。
 ああ、そうか――。その時僕は、彼女の涙の理由を知った。
 あの涙は、決してただキャッチボールが出来なくなることに対しての涙なんかじゃない。もっともっと深い、もっともっと過去から続く謝罪の涙だったのだ。
 彼女に責任なんてない。彼女の母親――僕の母さんを責めるつもりもない。それはもう過ぎ去ったことだ。父と母の間にどんな会話があったかは知らないが、今更どうしようもないことなのだ。
 なのに、彼女は今でも謝り続けている。おそらく、彼女の母に代わって。僕から母を奪ったことに対して。
 こんなに、こんなに綺麗な気持ちが世の中にあるだろうか。
 純粋に、ただ純粋に謝り続ける女の子がいるなんて、信じられるだろうか。
 彼女は毎日僕が来るのを待っていたのだろう。
 夕方の公園で僕に謝罪する機会をうかがっていたのだろう。
 気にしないで――あの時彼女に返した言葉を思い出す。
 馬鹿か、僕は。気にしないで、だって?
 何も知らず、何もわかっていなかったくせに――。
 もう、会うことはないだろう。
 ああ、それでも、許されるなら、彼女に謝りたい。
 そしてもう何も謝る必要はないんだと、教えてあげたい。
 彼女はきっとまた泣くだろう。だから僕はこう言ってやるんだ。
 ただ一言。
 姉さん、って。