ごちゃまぜに文体模写でも最後に「やれやれ」と言っておけばハルキスト

朝起きると、既に家を出ていなければいけない時間だった。といっても、30分寝坊しただけだけれども。
僕は寝起き姿のままキッチンへ向かい、薬缶でお湯を沸かした。ここで慌てて出かけ支度を始めるのは、クールじゃない。おそらく――いや、ほぼ完璧に近い形で――それが正解なのだとしても、だ。それは僕のスタイルじゃないのだ。
お湯を沸かしている間に、軽くシャワーを浴びて、新しいパンツをはき、シャツに袖を通す。沸いたお湯でコーヒーを入れ、窓際に腰掛けながらモーニングコーヒーをゆったりと啜る。
そう、また今日も一日が始まるのだ。
ふと時計を見ると、時刻は午前八時三十分。今から家を出ると、約15分の遅刻といった所だろうか。窓の外では、若い女性が駅に向かって早足で歩いていた。
多分この時、僕は焦っていた。だが、きっと、焦りよりも諦めに近い心境だったのだろうと思う。
若い女は、まだ早足で歩けば間に合うのかもしれない。だが、僕は? 僕はどうすれば間に合う?
今からではどうやっても間に合わない。遅刻は確定。なら僕に出来るのは、せめて諦めてゆっくりとした朝を楽しむことだった。
本当に、
そうなのだろうか?
僕は――
ただ、
諦めることしか、出来ないのだろうか?
答えはノーだ。
オーケー、認めよう。確かに僕は遅刻をした。いや、きっと確実に遅刻をする。
だが、それが15分の遅刻ですむのか、30分の遅刻となるのか、はたまた1時間の遅刻になるのかは、僕次第なのだ。
そう、僕次第。そんなことにも気付かなかったなんて。
僕に出来ることは、今すぐ出かけ支度をして、急いで駅に行き、電車に乗り、そして電車を降りてバスに乗って学校まで行くこと。
言葉にしてみると、なんて簡単なことなのだろう。なんで、こんな簡単なことを躊躇していたのだろう。
出来る。きっと、僕には出来る。それは確信だった。根拠もなにもない、だけど確固とした確信。それが今僕の中で湧き上がりそして沸々と沸き上がりつつあった。
鞄に教科書と筆記用具を入れる。悪くない感触だ。玄関で靴を履き、ドアを開け、そして閉め、鍵をかける。階段を駆け下り、そのまま駅までの道を歩く。改札を通り、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。
確かに悪くない。何回も繰り返してきた中でも、ベストに近い形だ。
――新百合ヶ丘で、英語のテキストを開くまでは。
新百合ヶ丘で、電車が5分ほど停車した。今思えば、これが予兆だったのだろう。全て上手く転がっていた、上向きになっていたところに、少しの陰りが差した。
一度差した陰りは、スポンジに垂らしたインクのように広がり、そしてやがてスポンジを真っ黒に染めていく。
賢い奴なら、ここで無駄に動いたりしない。博打も人生も同じ。運気に陰りが差したなら、様子を見るのが正しいやり方だ。
まだ運命はたゆたっている状態。順調に行っていた流れが、ほんの少し淀んだだけ。ここで下手に動けば、淀みは広がり流れ自体が停滞する。だから賢い奴は動かない。そして、それが出来ない奴が、負けていく。
そしてこの時の僕は、まさに負けた側だった。
電車が停車している間、手持ち無沙汰だった僕は、なんの気なしに――そう、本当になんの気なしに――英語のテキストを鞄から取り出した。
テキストは完璧な形で鞄の中に収まっていたし、他の筆記用具や財布も、まるで最初からそこに収まるよう作られたかのように、この上ない形で鞄の中の調和を形成していた。
そして、その調和は――そして僕をここまで推し進めていた流れは――僕が英語のテキストを取り出したことで、脆くも崩れ去った。
英語のテキストには、なぜか記憶にない折り込みがあった。
「あら、あなた、その折り込みが何だか忘れているの?」
と隣に座っていた女が僕に訊いた。
「ええ、正直な所ね」
しばらく考えた後、僕は答えた。
「その、折り込みが、何だか、よく、考えなさい。そして、思い出すのよ。それは、きっと、あなたにとって、大切、なことで、あなたを、救う物、の、一つ、だから」
女は自分の子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、そして言葉を句切って僕に語りかけてきた。
「救う物?」
馬鹿げている。一体何から救ってくれるというのか。
「そう、救う物。忘れないで。あなたにとって、その折り込みは大事な意味を持つわ。嘘だと思うなら、そのページを開いてみればいい」
女の雰囲気に、僕は圧倒されていた。女のこの自信は、どこから来るのだろう? 開いてみろというなら、開いてみればいいだけの話だ。だが……。
「どうしたの? 怖い? それとも信じられない?」
「両方かな。いや、きっと怖いんだと思う。そう、なぜだかわからないけど怖いんだ」
女は僕の答えに満足げに頷いた。
「怖いのは、思い出しつつある証拠よ。後はそのページを開くだけ。それで全てが変わるの」
「でも――」
この時になると、僕は最早恐れていた。この女を。そして何よりもこのテキストを開くことを。
「いい、もう『でも』も『しかし』もないの。それは『決まっていること』なのよ」
「決まっていること」
「そう、決まっていることなの。先週からね。理解、できる?」
「わかるような気はする」決まっているというのは本当だろう。それは何となくわかった。「だけど、決まっているからって従わなければいけないのかな。決まっていることに逆らって、決まり事を変えることは出来ないのかな」
女は哀れむように僕を見て、それから電車の窓から見える新百合ヶ丘のホームに目を向けた。
世の中には、「変えられる決まり事」と「変えられない決まり事」がある。そしてきっとこれは、「変えられない決まり事」なのだ。そんなことはとうにわかっていた。わかっていたが、認めたくなかった。
「認めなければ、真実を受け入れないで済むから? あなたが認めようと認めまいと、真実は真実よ。その証拠に、ほら、あなたはさっきからずっとテキストを開いているじゃない」
慌てて僕は、手に持っているテキストを確認した。そして、それは女の言う通りの状態で、僕の前にあった。僕の左手は、テキストの表紙をめくり、人差し指でページを挟み、折り込みされたページをしっかりと開いていた。それはきっと、女と話している間、ずっとそうだったのだ。
そのテキストは、イギリスの幼児が読むような文章だった。だが、テキストの内容よりも何よりも、僕の目を引いたのは、開いたページの左上、先頭のパラグラフがカラーマーカーで色付けられている点だった。
これは僕のテキストに間違いはない。きっと。なら、このマーカーは? 何の意味がある?
隣の女に聞こうと顔を上げた僕を迎えたのは、無人の車両だった。僕以外、誰もこの車両には乗っていない。もちろん僕の隣の席には、女など座っていない。
ならば、あれは誰だったのだ?
そしてこのマーカーは何だ?
考えるな。考えることは色々ある。だがその多くはきっとどうでもいいことだ。
余計なことを考えるな。今考えるべきは、女のことでも、無人の車内のことでもない。このカラーマーカーのことだ。
なぜならこれは「決まっていたこと」であり、このマーカーの意味を思い出すことが僕を「救う」ことに繋がるのだから。
答えを見つけるのに、それほど時間はかからなかった。

やれやれ――僕はなんだってこんな簡単なことを思い出すのに、こんなに時間をかけてしまったんだろう。
オーケー、認めよう。僕は今日の朝、英語のテキストを翻訳しなければいけないのに、それを忘れた上に寝坊して遅刻した。
まったく、ただそれだけのことを認めるためだけに、いちいちこんな儀式を踏まなければならないなんて。
僕はもう一度呟いた。
……やれやれ。