自己肯定

何かを得るということは、常に何かを失うということである。
財を成せば財を成す前の心を失い、恋を知れば恋を知る前には戻れず、恋人が出来れば独りだった時とは変わってしまう。逆もまた然り。


母に起こされお城に行って、王様に命じられ冒険に出れば、「冒険に出なかった平穏な生活」の可能性を失う。
お城に行かず、一生街で暮らしていれば、「冒険に出て魔王を倒して勇者になる生活」の可能性を失う。


どちらが良いか判断するのは、所詮自分でしかない。
そこにあるのは、主観的に決められた正解だけだ。
どんなに正しいと思って選んだ選択肢でも、その正しさには何の保証もない。
それどころか、その主観にとっても、違う選択肢の方が、実はより良い結果になったかもしれない。
切り捨てられた選択肢の結果がどうなるかなど、知るよしもないのだから。
自ら決めた「正解」ですら、自ら「正解」だと保証することは出来ないのだ。


何もしないで過ごせば、時間を失う。
だが、何かをして過ごせば、「何もしない時間」を失う。
どちらの「時間」も、その先に繋がる可能性が未知であるという点で、等価だ。


王様に命じられ冒険に出て、魔王を倒して勇者になって、その後「我が人生に一片の悔いなし」と死んだとしても、冒険に出た人生の方が、冒険に出なかった人生より幸せだったかどうかはわからない。
ひょっとしたら、勇者は冒険になど出ず、街で静かに暮らし、毎日一杯の紅茶を飲みながら読書をするような生活を送っていた方が、幸せだったかもしれない。


大事なのは、「今まで自分は正しい道を歩んできた」と自分を認めることではなく、「今まで歩んできた道は全て間違いだったかもしれないけれど、それでも構わない」と自分を認めることなのだろう。
それが、真の「自己肯定」なのではないだろうか。
全て間違いだったにせよ、全て正解だったにせよ、それを知る術はない。
間違いなどしていないとどんなに主張したところで、自分自身に対してすらそれを証明出来ない。
間違いでも構わないと、開き直りにも似た寛大な気持ちで認めることが出来て、初めて本当の「自己肯定」となるのではないだろうか。



ってな話を、素面で昼休みにするような人間は、やはり珍しい部類なんでしょうか。