くたばれノンフィクション至上主義

http://e0166.blog89.fc2.com/blog-entry-408.html ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話
ここのコメ欄やはてブに対する、
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080227#p2 「でも、これ実話?」
ここのエントリを読んで、むかーし読んだ木尾士目の漫画を思い出した。*1
その漫画の巻末で、作者は
「頼むから『実話ですか?』とかファンレターで聞いて来ないでくれ。そういう質問来るとスゲーやる気無くなる」
とか
「あのなぁ、漫画ってのは基本的にフィクションなんだよ。どれだけ『ノンフィクション』って銘打っててもな」
とか言ってたなぁ、と。
木尾士目自体は、「陽炎日記」と「四年生」を読んで、結局「五年生」はグダグダで途中で読むのをやめて、まぁアフタヌーンっぽい、細々続く漫画家なのかなと思ってたら、漆原友紀ばりにあれよあれよという間に「げんしけん」でメジャーになって、なんだかなって感じで結局「げんしけん」も読んでないんだけど。


で、もうすんげー極端な話しちゃえば、「実話かどうか」なんて確かめようがないし、いくら本人がノンフィクションのつもりで事実だけを書いていたとしても、主観でしか物事は見られないし、感じられないし、エントリ書いた「ネタ帳の中の人」が本当に存在するかどうかすらも確かめようがないし、なにより今あなたの前に見えてるディスプレイ、本当にそこに存在してますか? あなたは本当にあなたですか? ってな話である。


「フィクション」と「ノンフィクション」の違いがあるとすれば、フィクションはフィクションの中で完結するのに対し、ノンフィクションはその中だけで完結しない点だろう。
小説の中でどんなに少女が傷ついても、幸せになっても、本を閉じればハイサヨウナラである。
対して、ノンフィクション小説のなかの登場人物は、その中だけで完結しない。本を閉じても登場人物は現実に存在していて(あるいは『していた』)ノンフィクション小説の中ではハッピーエンドで終わっていても、その登場人物の人生は明日も明後日も続く。いつかその登場人物は、自分の人生の上に現れるかもしれない。現れなくても、間接的に関係を及ぼすかもしれない。
違いってのは、そこ「だけ」だろう。
もちろん、これに起因して色んな違いが生まれるんだけど。


少なくとも、北海道に行ったこともない、本屋好きの俺にとって大事なのは、「ニートの少女が立ち直りそうかどうか」よりも「本屋の素晴らしさをもっと多くの人が理解してくれるかどうか」である。
実用書はともかく、最近の文芸書の品揃えが酷いんだ……。

*1:確か「陽炎日記」だったと思う。「四年生」だったかも。