「アニメオタク」と「声優オタク」は、多分違うし、仲間じゃない

「オタク」という言葉が不適切であるなら、「ファン」「好き」などと言い換えても可。


獄・ガンダム00の実況スレが釘宮病L5患者の隔離病棟と化している件 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
ここを見て改めて実感。


僕は、アニメを余り見る方ではない*1。(以下余談)
「今クールチェックしているアニメ」など無いし、今までオンエアでアニメを全部見たことなんて殆ど無いし、そもそもウチはテレビが映らない。
これはアニメに限らずドラマとかもそうなんだけれど、毎週決まった時間にテレビの前にいる(あるいは録画予約しておく)ということが、出来ない。
8年前くらいからネットサーフィンするようになってからは、「毎週決まった時間にデバイスの前にいなくても良い」ことが多いネットの方が、テレビよりも僕に向いていたようで、益々テレビを見なくなった。
また、前にも書いた気がするが、マセたガキだったので、割と早い時期から「アニメを見るのは恥ずかしい」と思い始め、幽遊白書スラムダンクも、単行本は全巻持っていたがアニメは殆ど見ていなかった*2。一時学生じゃなくなった頃、「アニメを見るなんて子供っぽくて気恥ずかしい」といった感情も薄れ、深夜アニメを頻繁に見ていた時期もあるけれど。
多分最後にオンエアでワンクール全て見たアニメは、『Serial experiments lain』だと思う。
余談だが、漫画では『寄生獣』、アニメでは『Serial experiments lain』が、面白いかどうかは別にして、「その時僕が考えていたり、求めていた物にタイムリーにマッチした作品」だと思う。何度も言っているけれど、丁度今は無きザウスにスキーに行った時、偶然流れていた椎名林檎の『ここでキスして』のPVを見た時のような「ああ、俺が今求めていたのはコレだ!」ってな感情。
その作品が素晴らしいかどうかとは関係なく、大げさに言えば運良く「俺にとってベストなタイミングで出会えた」といった感じの。ゲームで言うと、『あの素晴らしい をもう一度』とかかな。
まぁ、『寄生獣』にせよ『あの素晴らしい〜』にせよ、今改めて触れてみると「確かに面白いけれど、なんで当時の俺はあそこまで心酔してたんだろう」って感じだったりもするのだけれど。

話を戻して、アニメの話

そんなアニメーションに造詣が深いとは言い難い僕だが、それでも「アニメの特性」みたいな物を考えることがある。
CGを駆使した実写映画やらが溢れる今の時代、「それらと同列の映像作品としてみた場合の、アニメの特性」とはなんだろうか、とか。
それは何よりも、「キャラクター=キャラクター」である点だと思う。


例えば、木村拓哉主演の『HERO』がどんなに面白かったとしても、主人公の久利生公平(木村拓哉)と雨宮舞子(松たか子)のツーショットシーンを見たときに、「あ、そういえばこの二人ってラブジェネと同じ組み合わせだな」と思ったり、牛丸豊(角野卓造)が出てきたシーンでは「幸楽は放っておいていいんすかw」とか思ったりしてしまう。
程度の差こそあれ、これは「久利生公平を演じている木村拓哉」という人間が現実に存在して、その「木村拓哉」は決して「久利生公平」とイコールではなく、最近で言えば突然ニコンのデジ一持って出てきたり、突然内閣総理大臣になったりしてるわけだから、仕方がないことだろう。
要するに、役者とキャラクターは、どこまでいっても別人(当たり前だけど)であるわけだ。


対してアニメに目を向けてみると、作画やら声やらで「キャラクターの裏に見え隠れする、生身の人間」というのはチラホラ見受けられるが、「生身の人間(俳優)がそのままキャラクターを演じる」という実写と比較すると、その情報量(生身の人間部分)は格段に少ない。
「私は三人目だから」と嘯く少女を見て「ちょw 三人いたなら人化の法出来るでしょw」とか、ドラゴンも跨いで通る女の子を見て「バカボン強ぇえw」とか思わないように*3


その他諸々もあるのだけれど割愛して言うと、つまりアニメの方が、より現実世界とのリンクを断ち切った作品世界の構築が可能だろう、と*4
もちろん、「だからこそアニメの方が優れている」などと言いたいわけではない。特性とはケースバイケースで長所にも短所にも成り得るわけで、「現実世界からの剝離度が高い」ということは、メリットでもありデメリットでもある)

そこで「アニメオタク」ではなく「声優オタク」の話

よーするに、「声優オタク」ってのは、映画で言うなら、「一本の映像作品としての映画が好き」じゃなくて「登場する俳優が好き」ってことなわけである。
僕らが、映画なりアニメなりを「一つの完結した映像作品」として享受し、愛でる場合、「現実に存在する、そのキャラクターを演じている誰か」の存在感なんてのは、薄ければ薄いほど良いわけだ。
アニメが好きならば、恋するべきは中の人ではなく、「中の人などいない」という態度*5をもって、キャラクターを愛せば良いのである。


それに対し、ひたすらに中の人を気にし、中の人に熱狂している連中は、(トラックバック先の例で言うならば)同じ「ガンダム00ファン」「ガンダム00を見ている仲間」かも知れないが、確実に連中の愛しているそれと、あなたの愛しているそれとは違う物であり、違う愛し方なのである*6


押井はかつて、「(僕がやりたいのは)架空の世界を作り出す(こと)」「(そのためにアニメという手法を選ぶのは)アニメのほうが限られた予算の中でやれることが多いから」といった主旨のことを、インタビューで述べている。
http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/animation/vol4/
それがアニメの全てだとは言わないが、アニメの特性の一つには違いない。


言うなれば、奴らは、あなたの好きな「アニメ」というメディアの特性を殺す、敵だ*7
焼き払え。

*1:アニメオタクの人と比べて

*2:漫画で読んだ方が面白いと感じていたというのもある

*3:いや、声優オタクの人は思うのかもしれないけれど。要するに情報量の差についてである

*4:宮崎駿が、「写真を見て描くな。見たままを描け」と言ったのも、アニメだから出来ることであって

*5:というより、本気でそう思い込むほどの熱狂

*6:僕はガンダム00自体見てないけど

*7:厄介なのは、敵自体が「敵である」ということに無自覚な点である