話題になってるので言及

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan


404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
小飼弾も書評を書いて、Amazonでは飛ぶように売れているようで。


ここから派生して、様々な所で話題になっているようなので、言及。
といっても、梅田望夫twitterでの発言の是非だの何だのについては置いておく。
一応、日本語に関わる者の端くれということで、気になったブコメやコメントがあったため。


しかし、よくみんな他人の書評だの「読んだ方が良い」って言葉だけで、買いまくるなぁ。
せめて本屋でチラっと内容見てから買った方が良いと思うけれど。


読まないで言及するのがバカなら、「買え」と言われただけで買うのも十分バカというか、アルファブロガー信者って奴ですか。
というわけで、僕は読んでません。
亡びるなら勝手に亡びれば良いと思う。


私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びは私達の暮らしの、既に一部になっている。

日本語が死ぬ

ここから本題。
日本語が「変わる」ということを指して、「死ぬ」と捉えてコメントを書いたりしている人がやたら多く見受けられた。
この辺については、404 Blog Not Foundの方でも色々書かれていたけれど。


言語というのは生き物だから、「変わっていく」物である。
で、そういうのは前提として、その「変わっていく」ことを問題としているのではなく、「変わるとかそういうレベルじゃねーぞ。死ぬぞ」ってことを問題としているのが梅田望夫小飼弾の一連のエントリなわけだと思う。
その辺を読み違えているのか、「今だって若者言葉が乱れたりして、変わってんじゃん」という次元のツッコミコメントのなんと多いことか*1


僕自身は、「日本語は亡びない」「日本語は死なない」と思っている(少なくとも日本という国が、今のような形で存在し続ける限り)ので、あんまこの辺深く突っ込む気は無いけれど、「言葉の変化」と「言葉の死滅」とは全然一緒じゃないんだよってのを前提にした上で、コメントした方が良いと思います。*2
少なくとも、404 Blog Not Foundや、My Life Between Silicon Valley and Japanの記事は、「言語の変化」ではなく、「言語の死滅」を問題にしたエントリだろうってことで。


生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう。

日本語を、いや、多種多様の言語を残すべき理由

日本語が亡びたっていいじゃん」「英語で喋ればいいじゃん」って意見も、結構見受けられた。
単なるコミュニケーションツールとして見たら、日本語に拘る必要は無い。伝われば良いんだから。
でも、本当にそうだろうか?
例えば僕がここで書いているようなことは、そのまま英語にしたとしても、何らニュアンスは失われないかもしれない。所詮その程度のことしか書かれていない。
けれど、全てがそうだというわけではない。
「にほんご」なのか「日本語」なのか「ニホンゴ」なのか。
こういった微妙なニュアンスの違いを、英語でそのまま表現できるのか?
そう考えていけば、「日本語でしか出来ないこと」が見えてくる。それこそが、「日本語を残す理由」だ。
もちろんこれは日本語に限らず、他の全ての言語についても同じである(僕自身は、とりわけ日本語、次いで中国語が美しいと思っているけれど)。
文化的な話だのなんだのという観点で言っても、言語は少しでも残した方が良い。
沖縄の古語や方言なんてのも、もっと注目されるべきだと思うけどなぁ。


というか、「日本語」にしか焦点が当てられず、そういった方言とかに配慮されていない辺り、元エントリとかは「なんだかなぁ」と思ったりする。
日本語全体を云々言う以前に、こういった「既に死んでる日本語(の亜種)」の話はどうなの? と。

日本語が大好き

というわけで、僕は日本語大好きっ子なわけだが、こういう人は日本人には割と多い方なんじゃないだろうか?
例えば、日本語で書かれた小説が好きなんて輩は、日本語好きになる素質有りである。
英訳された日本語小説なんてのもあるが、両方を読み比べてみると、日本語がいかに素晴らしいかがわかる*3


俵万智の歌が英訳されたりしたこともあったが、僕からしてみれば、あれは狂気の沙汰だ。
漫画とアニメは、別物だと思っている。メディアが違うから当然だ。
英訳された物と、日本語で書かれた物も、同じように別物だ。メディアは同じでも、言語が違うのだから。
言語に依る部分の大きい和歌だの小説だのは、メディアが変わる以上の変化だと思っている。
もちろん、「別物」として見た上で面白いということもあるが。
僕は一時、ハヤカワの翻訳SF小説をよく読んでいたが、あれだって原書を読むのと翻訳物を読むのでは、全く違った感を受けるだろうし、別物だろう。


日本語の持つ美しさ*4といった物を、皆が意識して、日本語でしか表現できない表現ってのを愛せば、自然と日本語は亡びないのではないかなぁ、と思うわけである。


あたし彼女」だって、十分に日本語の特質を活かした作品だと思いますよ。マジで

で、亡びるのけ?

というわけで、僕は、「日本語が亡びるとき」の著者や、梅田望夫や、小飼弾が、何に危機意識を感じているのか、今一わかっていない。
別に、今の「ブンガク」が低俗と呼ばれようが、困るのは一部の教養主義者達で、教養主義の崩壊した21世紀に今更何を言っているんだって感じだし、明治期〜昭和初期に作られた*5「文学」を初めとするハイカルチャーに心酔したいなら、当時の作品に触れれば良いだけだ。
大体、「国語」という言葉が「日本語」に置き換わりつつある今、石原慎太郎都知事をやっているような今*6、「純文学」だの「国語」だのを信奉する方がマイノリティなんじゃないだろうか*7
ハイソサエティの方々が言うような「国語」や「文学」は亡びるかもしれないけれど、僕らの好きな日本語は、きっとまだまだしばらくは残ると思うんだけど、どうなんでしょう。


まぁ、とりあえず何に危機感を持っているのかすらわからないので、本屋で見つけたら読んでみようと思います。

*1:見方を変えれば、変化とはある種の死だけど、そういう話ではなく

*2:僕は、日本語が亡びる時=日本が亡びる時 と同義だと思っている

*3:ここで英訳と変わらないような作家は、日本語を使いこなせていない作家に過ぎない

*4:といっても、日本語だけが特別と言いたいわけではない。各言語それぞれ美しさがあり、その中での日本語の特質についてである

*5:作品が作られた〜ではなく、文字通りそういった概念が作られたという意味

*6:石原慎太郎は、むしろ教養主義者の敵だろうに。今じゃ老害化して違うのか。

*7:いやまぁ、僕は割と信奉してますけど