下書きのまま放置されたエントリ――あるいはブンガクの読み方について(続き)

ブンガクと書いてますが、主に小説についてです。

作家・作品論自体が全くダメと言いたいわけじゃない

そこに固執し過ぎて、作家と作品を切り分けて語れないこと(「作家の知識→作品解釈」から「作品解釈→作家のイメージ」へと逆流し、それが更に「作家のイメージ→作品解釈」と戻ってくる連鎖)に問題があるわけで。


言うまでもなく、小説とは事実ではない。ノンフィクション小説ですら。
どんなに作者が「事実通りに書いた」と言っても、その情報は全て作者のフィルターを通した情報であり、僕の大好きな『スローカーブを、もう一球』にしたって、中立的な立場から緻密な取材を行った名作だというのは確かだとしても、事実その物ではない。
極論を言ってしまえば、事実その物など、書けない。書けるはずがない。自伝であったとしても。


例えばあなたが、昨日の出来事をありのまま書いたとしよう。それは『事実』だろうか?
その『事実』は、「今日のあなたが昨日を思い出した」場合の事実であり、昨日のあなたにとっての『事実』と必ずしも一致するわけではない。その時、その瞬間の感情は永遠に残る物ではなく時間によって変わるし、後から得た情報によって全く違う感想になることもある*1
まぁあまり例を挙げる必要もなく、要するに極単純な「作品=作者」ではないし、「作品=事実」ではないという点を指摘したいだけである。

なぜ、作家・作品論が必要だったのか

文学作品とは、一つの独立した作品であり、作品を味わう為には作家の半生を知るような必要がある物は、(伊藤整の言葉を借りれば)「文学史的感想」と呼ばれる物だろう。
無論、この「文学史的感想」が文学ではないと切り捨てるつもりはない。これはこれで、一つの文学だし、むしろ近代小説の中心は(クソくだらない)「文壇」とやらにあり、作家は同時に演技者であることを要求され、常に「作家らしいポーズ」をとり続ける事を要求されて来たのだから。
そういった時代に必要なのは、作品の読み込みも勿論だが、それ以上に作家論である。いや、逆か。作家は作家らしくあれ、という風潮があり、その下で生まれた作品である以上、作家論に落とし込まれるのは当然なのである。
だから僕らは、近代小説と言われるような所謂文学を読む際に、作家の略歴やら、作品執筆当時の時代背景やらの知識を要求される。それがないと、作品の持つ真の味を味わえないとされるからだ。

行きすぎて同一視

特定の作家の生涯を学んで、特定の作家の作品を全て読んで、傾向を知り、時代背景を知り、その上で作品の解釈をする。大いに結構。
だが、特定の作家の生涯を学んで、特定の作家の作品を全て読んで、傾向を知り、時代背景を知り、その上で作品の解釈をし、更に「こんな作品を書いたんだから、こんな作家だったんだろうな」と考えるのは、大きな誤りである。そして、そうやって作られた作家像を元に他の同作者の作品を解釈することも。


村上春樹じゃないが、作家というのは上手に嘘をつくのが商売なのである。
退廃的なイメージの作品を書きたいと思ったら、作家自身は全く健全な身心を持っていたとしても、主人公を病弱で精神も弱く、悲観的で最後に自殺してしまうようなキャラクターにしてしまえば良いのである。
「実体験の伴わないキャラクター造成は薄っぺらいからすぐわかる」とか言うアホもいるが、それこそ作家に対する最大の侮辱だ。
例えば有名な作家、太宰治。彼の作品を読んだ人に、作者のイメージを聞けば、病弱、儚げ、病的、天才、知的で繊細などといったイメージが出てくるだろう。
だが、太宰は病弱だったか? 精神面はともかく、肉体的には腕白小僧とまで言われた太宰が病弱?
もちろん、だからといって太宰がクソというわけではない(僕は好きではないけれど)。
太宰治という作家は、(実体験も利用した上で)読者にそこまで上手に嘘を吐いた、上手い作家だったわけである。


私小説のはしりとされる田山花袋の『蒲団』にしたって、どこまでが本当の事なのかは、本人にしかわからない。
『蒲団』を読んで、「田山花袋って、蒲団の残り香をクンカクンカする変態だったんだ!」と言うのは、Fateをプレイして「奈須きのこは、聖杯戦争に参加したことがあったんだ!」と言うのと同ベクトルの話である。程度の差こそあれ。


現代小説ではそこまで作家が重要視されないが、村上龍村上春樹のダブル村上にしても、作家と小説に登場する主人公のイメージはイコールではない(物によってはかけ離れている)が、やはり上手い作家なので、上手に読者を騙すのである。読んだ読者は、あたかも作家もこの作品の主人公のような人なのだろう、と思ってしまう程に。

グダグダ長く書く必要は全くなかったわけだが

要するに結論としては、「作品読んだからって、作品の登場人物と作者を同一視しちゃダメですよ」という、極々当たり前の事を言いたいだけある。
が、この当たり前のことが、こと文学になると(私小説というジャンルのせいで)途端に出来なくなってしまうのである。
物語は史実ではないという、単純な事がわからなくなってしまった人間が、平気で文学とやらの世界にはいたりするわけで。
そういった人間が、混同した考えの下、新たな作家論を論じ、その作家論の影響を受けた人間が作品を読み、新たな作品論を論じ、その作品論の影響を受けた人間が新たな作家論を論じ……(冒頭に述べた連鎖)。


もうそれが、不可分なレベルまで混じり合ってしまって、最早わけわからん状態なのが今の文学研究の状態だと、僕は考える。
確かに、作家論を知った上で作品を読むのは、作品の解釈の手助けになるかも知れない。だが、同時に偏った予備知識を入れることで作品自体の読解を著しく阻む可能性も孕んでいる事を、忘れてはならない。そして著しく阻まれた上での読解を元に、更に偏った作家論が生まれるのだ。


というわけで、一度、脱出しましょうよ。
素直に、予備知識ゼロで作品と向かい合いましょう*2
誰が書いたかとか、浪漫派だとか白樺派だとか、新感覚派だとか、そういうの一切意識せず、作品を読んで得られる物があれば、それが文学の正しい楽しみ方なんですよ*3

*1:そもそも、僕らが使う言語では、ありのままの事実の伝達なんて不可能だ。そこにあるのは、伝わるという幻想と、伝わったという錯覚だけである。

*2:これは理想だけど、本当は無理。理由はまた今度

*3:これはあくまで「読み手」としての正しい姿についてであって、「研究者」であればそこから更に突っ込んだ姿勢が勿論必要になるけど