仄暗い水の底から――21世紀の消費的オタク文化と上手に付き合う方法

全国一億二千万のアニメオタクの皆様、いかがお過ごしでしょうか。
アニメオタクの皆様には、それぞれ思い入れのある作品や、思い入れのあるキャラクターといった物が存在すると思います。
そしてアニメオタクの皆様は、いつだってその思い入れのある作品やキャラクターについて熱く語る機会を待ち望んでいることでしょう。


ですが、一年後はどうでしょう?
らきすた」であれだけ騒いでいた人たちは、どこに行ったんでしょうか?
けいおん!」で騒いだ人たちは、いつまで「けいおん!」を語り続けることが出来るのでしょうか?
2009年7月末の今、放送終了しているにも関わらず未だに語り続けられるアニメが、どれだけ存在するでしょうか?


端的に言えば、20世紀末から21世紀にかけての「オタクブーム」は、コンテンツ消費に支えられて来たと言ってしまって良いでしょう。
消費が前提の「ブーム」。その「ブーム」を続けるために新たな作品が次々生み出され、そして「ブーム」であるが故にそれらの作品は次々と消費されていく。
止まったら死んでしまうんです。僕らは消費し続けなければならない。次々に作品を鑑賞し、速やかに捨て去らなければならない。そしてまた次へ行くのです。


僕は少し前まで、その仕組みが嫌いでした。いや、今でもその仕組みが嫌いです。
作品を愛でることなく、長期にわたって愛することなく、ただブームに乗って喰らい尽くして消費するだけでは、そこに「文化」は生まれない。
昨今話題になるオタク文化はあくまで流行によって作られた軽薄な物で、消費連鎖のスタイルを変えないことには、作品単位での文化は生まれず、それではいつまでたってもアニメはただの暇つぶし・子どもの見る物の域を出ない、と。
そしてそれを良しとして、我が物顔で作品を消費していくあなた方を憎んでいました。
でも、それはあなた方だけの責任でしょうか。コンテンツ制作者側にも責任があるのではないでしょうか。


ここで少し、僕の好きな文学の話をさせて貰います。
僕は別に、文学が高尚な物だとは思っていません。アニメも文学も同じエンターテイメントでしかないと思っています。
ですが、それでも文学は今日まで残りました。明治の小説は今でも(一部の人にですが)読み継がれ、楽しまれています。
それは、ただ単に文学が「研究対象」だったからでしょうか。文学史研究の都合上、否応なく読まれ、それにより残っただけなのでしょうか。
僕は違うと考えます。


もちろん、今日文学的評価を得ている作品の中には、僕から見て駄作でしかない物も多々あります。
ですが、多くの名作と呼ばれる作品には、時代を超越し、作品を読んでから何年経っても語ることの出来る「強度」と「深度」を持っているから、残ったのではないでしょうか。
コンテンツ自体に強度・深度があったから、名作は名作たり得たのでしょう。
対して現代の作品はどうでしょう。それだけの強さ・深さを持った作品が、果たしてどれだけあることか。


深みを持った作品は、理解に時間がかかります。骨格の強い作品は、時に口当たりが悪く、咀嚼するのにも苦労するかも知れません。
ですが、深さと強さを持った作品は、長く楽しまれます。
そういった作品を作れない(作らない)制作者側にも、問題があるのではないでしょうか。
もちろん、作品の強度と深度は、そのバックボーンや作品にかける労力で、大きく変わります。
長く楽しまれる物を一つリリースするよりも、薄っぺらくとも口当たりの良い物を量産した方が、儲かるのかも知れません。ですが、それではいつまで経っても消費サイクルは変わらず、長期的に見ると、ブームが下火になって行くにつれ、そのサイクルは破綻します。
それは僕らオタクが望むところではないはずですし、制作者側も望むところではないでしょう。
ですから僕は、今日の消費スタイルが、オタクの側だけの問題だとは思いません。


僕はいつだって、僕の好きな作品が愛され続けることを望みます。
10年前の作品だろうと、100年前の作品だろうと、僕が本気で好きになるほどの作品なら、他にも好きな人がいるはずだ、と。
そして、そうして好きになった作品は一生好きで居続けるつもりで愛します。
それだけの強度を持った作品を、いつも求めています。
もちろん、一生ずっと愛せるだけの作品に巡り会えることなど滅多にはありません。
ですが、巡り会えたとしたら、それはどれほどの幸福でしょう。


あるいはこれを読んでいるあなたは、一時のブームに乗っかってコンテンツを貪り、ブームが終息するのに合わせ、その界隈を離れ、また新たなブームに乗るという、そのサイクルを望むのでしょうか。
だとすれば、僕はやはり、あなたを敵だと言わざるを得ません。


僕は常々、フェミニストの最大の敵は女性自身であると思っています。
わかりやすい「敵」であるところの男性よりも、「仲間」であるはずの女性の、意識の低さこそが、女性解放の最大の難関だと。
そして、サブカルチャーにしてもこれは同じだと思っています。
僕らのわかりやすい敵は、オタク趣味に対して理解のない一般人です。
ですが、わかりやすい敵は、対策も立てやすく攻略しやすいものです。
僕らの最大の難敵は、一見仲間に偽装した、悪意のない「コンテンツを貪るだけの人々」なのです。
彼らは僕らの好きな作品を貪り、陵辱し、ブームが去ると去っていくだけの存在です。
彼らにとって、コンテンツ自体の行く末などどうでも良いのです。
ですが彼らは、一見コンテンツ自体を愛する人々と見分けがつきません。そして敵だとわかった時には、コンテンツは陵辱された後です。
それにより破壊されるのは作品だけではありません。
彼らが大量に僕らの愛するジャンルに入ってくることにより、ユーザーを意識するような制作者側は、作品を変えてきます。
僕らの愛した作品を生み出していた場所は、いつしか消費されるためだけの軽薄なコンテンツを生み出すだけの場と成りはてているのです。


彼らは敵です。そして今や彼らの数は膨大で、とても僕らは太刀打ち出来ません。
ですが、僕らは一つの逃げ場を、インターネット上の世界を手に入れました。それは彼らを増幅させる一つの要因になった物ですが、僕らが逃げ込むにも格好の場でした。
僕らは元々とても数が少ない存在です。特定の作品を一生愛し続けるなんてこと自体が、どこか狂った行為なのかも知れません。
ですが、インターネットは僕らを繋ぎ、消費されない作品を、その感想を、容易に共有することを可能にしました。


コンテンツ消費のスタイルの流れを止めることは、もはや僕らには出来ません。
僕らは、割り切ってそれと付き合い、そして稀に現れる、僕らが一生愛するに足る強度を持った作品を見逃さないようアンテナを伸ばし、そしてネットの深い海の底で、同類といつまでも特定の作品について語り合うことしか出来ないのです。
いつかこのブームが終わる日を夢見て、海の底で何度も何度も語り合うだけなのです。