昔の自分に伝えるつもりで。

増田を見ていて、何とも言えない気持ちになったのでトラバ。
昔の自分に伝えるつもりで書くから、どうしても上から目線っぽい口調になっちゃうだろうけど、僕の言ってることが正解とは限らないし、「僕も昔そうだった」と言ったからって、増田まで僕の辿った軌跡を辿るとは限らないので、あくまで一つの例として。


政治について一から知りたいのに、誰の話も信用できない。
http://anond.hatelabo.jp/20090831223602


僕の場合、まず、政治に限らず、真にフラットな発言など無いと諦めた。
人が獲られる「客観」なんて、所詮「主観の中で考えた客観」でしかない。僕はどこまで行っても僕だし、君はどこまで行っても君だ。
政治で言うなら、党員に限らず、皆何らかの意見なり考えを持っている以上、たとえ教えてくれる人がどんなに中道な意見を言おうと努力したとしても、そこには何らかの補正が入る。
それは思想に限らず、知識の偏りから来る物かも知れない。
それを僕らは自覚することが出来ないし、また他人のそれを察知することは出来ない*1
特に自分の損得が絡む話に関しては、君の言ってる通り、補正が強くなるケースが多い。意識的な補正が*2。党員の発言を見て、君が感じるように。
だが、自分の損得の絡まないような話でも、その人の持っている知識や考えに基づいた発言である以上、真に客観的な意見など存在しない。


「これは真理だ!」と信じる人・物・言葉に出会えた人は、ある意味で幸せだと思う。たとえそれが嘘で塗り固められた物だったとしても、「信じる者は救われる」のだ。
涙を流しながら頑張れた彼女は、(もし一生嘘に気づかず、頑張り、そして報われたなら、その成功がどんなに嘘にまみれた物であっても)幸せだっただろう。
でも、僕はそれが嫌だったし、そうなれなかった。
いっそ政治どころか、宗教に填れたら、どれだけ幸せだったか。


熱烈な共産主義者にもなれなかった。無政府主義者になるには覚悟が足りなすぎた。無頼を気取るには弱すぎた。
だから僕は今でも、僕自身の知識や考えに対し「正しい」と確信を持つことは出来ていない。
絶対的な物など存在しないという考えの下、僕が完璧に納得できる「正しい」ことなど無いとさえ思っている。
でも、今ではそれで良いのではないかと感じている。
絶対的に正しい物なんて無い。けれど、それに近づこうと努力することは出来る*3


言語によって人の思いを完全に正しく伝えることが出来ないように、政治に限らず、あらゆる思想・信条において完全に正しいという物は存在しない。
けれどまた、言語がそうであるように、言葉を尽くせば尽くすほど、より緻密に伝えられるように、偏った考えから正論と呼ばれる考えまで、ありとあらゆる考えに触れれば、より中道に近づけるのではないかと思っている。


元の話に戻して、政治で言うなら、人から自民のダメなところを聞いたなら、次は民主のダメなところを別な人から聞けばいい。自民のいいところを聞いたなら、別な人から民主のいいところを聞けばいい。


長々書いたけど、結論から言えば、政治に限らず「真実を見極める目」など、無い。
出来ることは、「真実を見極めようとする姿勢」を維持し「真実を見極めるための知識」を身につけようと努力し続けることだけだ。
懐疑主義者になれと言ってるわけじゃない。けれど、常に自分の考えに対し、自問し続けることは大事だと思う。僕らが真理に到達することが無い以上。


もちろん最初に述べた通り、これは昔、選挙の際、「君と同じようなことを考えた僕」の場合の話でしかないし、僕と君はイコールじゃない。他にも違う答えはあるだろうし、どれが正解かはわからない。
ただ、僕の場合は、「諦めた」。そして、「そんな物はない」と諦めた上で、それでも「そんな物」を求め続けることが大事だと考えた。


そんな僕は、革新党が共産党しか無いからという理由で、投票する際は白紙投票か共産党に投票するかしかしていない。
僕の上記の発言も、あくまで「共産党に投票するようなヤツの発言」として捉えてくれて構わないし、一見理想を捨てたように見える発言も、見方を変えれば青臭い理想論でしかないから、まさにそんな僕に共産党はうってつけかも知れない。


お節介なのは百も承知だけど、それでも言っておきたいのは、触れた思想や信条の数が多ければ多いほど、より自分の選択肢は広がり、そしてそれらのどれを盲信するでもない状態でいられれば、より視野が広がると思う。
だから僕のこのエントリも、「そんな考えもあるね」くらいで読み流してくれると、嬉しい。

*1:推察することは出来ても

*2:それを自覚している人の場合、逆補正が強くなる場合があるのも含めて

*3:たとえ結果全く近づいていなかったとしても