ことばについてtwitterに入りきらないつぶやき色々

結局は言語もコミュニケーション手段の一つに過ぎないということを、常々気をつけておきたい。
言葉とはなんら特別な物ではなく、手段の一つでしかない、と。
言葉を神格化しがちな自分への戒めとして。
そう思っているんだけど、それでもやっぱりまだどこかで、言葉を、言葉の世界を信じてしまっている。


世界は言葉で出来てない。言葉とは決して実体ではない。
言葉の世界とは、僕らの脳内にだけある、観念的な世界でしかない。
その世界は、他者とは決して共有できないので、自分だけの観念的な世界ということになる。
(自分の脳みその中身をそっくりそのまま移植でも出来れば別だが)
数字の世界はコンピュータの中にある、共有可能な世界だ。
(コンピュータの世界では、脳みその中身をそっくりそのまま移植可能である)
とすると、言葉の世界を愛するということは、結局自分の内面に閉じこもりたいだけなのかもなぁ。


思考が言語に制限されて、その表現もまた言語に制限されている。
そこから抜け出せたら、少なくとも今よりは色々な可能性が生まれるのではないだろうか。
それとも制限されてるのは僕だけか。


よく、言葉に出来ない「何か」つまり、感情の存在に触れられるけれど、それを共有するのは不可能だ。
なぜなら、言葉で説明した物ですら伝わらないのに、言葉に出来ないような物が「本当に伝わっているかどうか」を調べる術がないのだから。
「上手く言えないけど、こういうことってあるじゃん」
「あーわかるわかる」
この会話は、「多分相手もこんな感情のこと言ってるんだろうなぁ」という推測が間違っている可能性を一切排除して、「共有したつもり」になっているだけに過ぎない。
たとえばどんなに例を出して、「あのときの、こんな感じでしょ?」と言ったとしても、それが本当に同じ物かを確かめることなど出来ないのだから。
数多ある星について、「あの、赤くて明るい星あるじゃん」「あーあれ、わかるわかる」と言ってるような物だ。
同じ地球の、同じ地域に住んでいれば、そこから見える「赤くて明るい星」は限定されるが、宇宙規模で見れば「赤くて明るい星」など無数に存在する。
一見、同じ人間だから、同じ感情を持つのだろうなぁと誤解しがちだが、実際には宇宙規模で精神構造が違うなんてことは大いにあり得るわけで。
「あの映画いいよね」「だよねー」と言っていても、実は全然違う部分を「良い」と感じているなんてのは、日常茶飯事だ。


言語崇拝者である僕は、そこで「言語を尽くせば齟齬は埋められる」と主張しがちだが、実際には言語を尽くしたところで、不可能な物は不可能である。
とすれば、無駄に言葉を費やして、理解する努力・理解させる努力をするよりも、「だよねー」の一言で、「理解した・理解させたつもり」になっていた方が、遙かにマシかも知れない。
処世術とはこういうことか。


言語が他のコミュニケーション手段に比べ優れているのは、情報の保持と伝達の観点から見て優れているというだけに過ぎない。
でも、コミュニケーションにおいては、その二つが何より重要だったりするわけで。
身振り手振りも、言葉も、「本当に考えたこと」がそのまま伝わらないという意味では同じ程度の情報伝達能力しか持たないけど、より遠くへより素早く伝えるには言葉の方が優れているし、長期間保存するにしても言葉の方が適しているわけで。
本当に「ただそれだけ」と割り切るべきなんだろうと思う。
互いの脳神経を接続して、直接感覚をやりとりするようにならない限り、僕らは永遠に孤独なままだ。自分の思考や意志を共有出来ることが、孤独でない証だという定義の上でだけど。


使う言葉が同じであっても、思考が別々であれば同じ意味で同じ言葉を使っているとは限らない。
「赤い」という言葉一つにしても、赤緑色覚異常者と健常者では明らかに違うように。もちろんこれは極端な例だが、健常者同士だったとしても決して同じ「赤」には至らない。
色の場合は、この世に実体がある物だから、RGBで指定すれば同じ物が得られるかも知れないが、こと思考や感情に関しては、脳内にはあれどこの世には存在しない無形の物だから、それが不可能だ。
バベルの塔に怒った神は、言葉をバラバラにしたのではなく、思考をバラバラにしたのかもしれない。


じゃぁ言葉以外のコミュニケーション手段なら良いのかと言うと、伝わらない原因が「思考・感情の共有不可性」に関わっているわけだから、どんなコミュニケーション手段を用いようと関係ない。
結論としては、脳を繋げるしかない。小林泰三の小説で、そんな設定の生物いたな。感覚器官を相手の体内に挿入して〜的な。


なんども繰り返すが、言葉では所詮(本心は)伝わらない。
言葉でなくとも、伝わらない。
そのことを十分に自覚して、割り切った方が、(無駄な努力をしたり、無駄な期待をしたりせずに済むという点で)良い。
自分に出来るかどうかは別。
これまでも無理だったし、これからも自信がない。
だがそれでも、伝わらないというのは客観的に見て事実である。
思考や感情は、「はいこれが僕の思考です」ってな具合に、相手の前に持って来て見せることは不可能だ。
どんなに共感された気がしても、理解された気がしても、自分の思考と同じように、相手の思考を見ることが出来ない上、それを確かめる術もない。
いつだってフィルタのかかった思考っぽい言葉・感情っぽい言葉を投げ、また受け取ることしか出来ない。
そこまで自覚しても、諦められないのは人間の性か。
人は常に決して得られぬ物を渇望するってところか。