僕が「教育」および「国語教育」について考える時、そこには遙か何世代も後の人たちがいる

当たり前のことだけど。

日本語

僕は日本人です。
これを読んでいる人も、日本人の方が多いでしょう。
あるいは(翻訳して読んでいるのでなければ)日本語を読める人でしょう。


僕は日本語が好きです。
学校教育においては「国語」という名前になっているから、ここでは便宜上「国語」としますが、「日本語」のことです。
日本語」が「国語」ではなくなる日が来たとしても、僕は「日本語」が好きだと思います。
古文は好きじゃありません。教える側に回った今も、「なんでこんな物を必修で学ばなければならないのだろう」と思っています。
ですが、古文を知ることで、現代の日本語に至る背景や、現代の日本語の素晴らしさを再確認できるという思いは、教える側に回ってより一層強くなりました。


話が逸れました。
僕は日本語が好きです。
そして、100年後も、200年後も、日本では日本語が使われているだろうと思っています。
だから、僕が「国語教育」について考える時、そこには、何世代も後の人たちのことまで、含まれるのです。


そもそも教育って

僕が関わった中で、僕が「何か」を伝えられる相手なんて、ほんの一握りでしょう。
一万人と接して、一人か二人いれば良い方だと思います。
ですが、その一人がまた一生で一万人と出会って、一人に「何か」を伝えて、その一人がまた一万人と出会って一人を変えて……と続けば、「何か」は永遠に残り続けます。


僕よりも、他の誰かがやった方が上手くいくことは、いくらでもあると思います。
でも、僕にしかない「何か」は僕にしか伝えることはできないと思っています。
いえ、正確には「伝える」ことなんてできないのでしょう。「伝える」のではなく、「伝わる」かどうか。
前述したように、一万人と接して、一人に伝われば良い方でしょう。
伝わった「何か」が良いか悪いか、僕にはわかりません。
でも、「何か」を残すことが可能であるというだけで、僕はワクワクします。
そしてできることなら、その「何か」が、伝わった人の役に立つ物であって欲しい、そうありたいと思っています。
だから、僕が「教育」について考える時、そこには、何世代も後の人たちのことまで、含まれるのです。

実際は

でも、実際僕が現場で教えなければいけないことは、「何か」のことではないし、「日本語の素晴らしさ」でもありません。
だから僕は、それらを教えるようなことはしません。
教えるよう決まっていることを教えて、教えるよう決まっていないことは教えない、ただそれだけです。
だけど、そんな日々の繰り返しの中で、僕が思っていることや感じていることは、何かの端々に表れるでしょう。
それが「何か」として彼らに伝わってくれれば、伝わることがあれば。
そんな思いで、毎日暮らしています。


だから、僕は「自分自身の何か」のことばかり教える人も、「自分自身が素晴らしいと思っている何かの素晴らしさ」ばかりを教える人も、好きではありません。
教育ではないと思っています。
教えるべきことを教えて、関わり合う中で、自然とにじみ出る「何か」や「何かの素晴らしさ」が、押しつけではなく影響を与えることがあればなぁ、と思うだけなのです。