被差別意識

オタクとか同性愛者とか障害者とか、そういう「社会的弱者」に対し全く抵抗が無い。
(上記の方々を全て一絡げにしてしまうのはマズイのかもしれないが)
何度も言っている事だが、僕は資本主義、恋愛主義から逃げ出した人間である。そんな僕が言った所で説得力は無いかもしれない。
もちろん「社会的弱者とされる人物だから積極的にお近づきになろう」とまでは思わない。だが、逆に積極的に距離を置こうとも思わない(直接的な害を被ったら別かもしれないが)。
つまり、それらのファクターは僕にとって「どうでもいいこと」なのである。
相手が童貞だろうが、喪男だろうが、オタクだろうが、同性愛者だろうが、聾唖者だろうが、盲者だろうが、それは僕にとって椎名林檎の黒子程度の意味しかないのである。
誰だって程度の差はあれ弱い部分、認めたくない部分というのは持っていると思うし、それに伴う悩みがどんなに深いかなんて、表面からでは計れないだろう。
もちろん人間関係において最低限のマナーというのは存在すると思う。
簡単に言うなら、他人(相手)に迷惑をかけない、という事になるだろう。
つまり、相手(この場合僕)に迷惑をかけないのであれば、どんな趣味だろうと性癖だろうと、どうぞご自由にってなもんである。
その上で僕がその人に対し何らかの価値を見出したら、たとえその人が社会的弱者という立場に置かれている人だったとしても、何の抵抗もなく付き合っていくだろう。というか、いきたい。

で、2ch喪板の話になってしまうが、あそこの空気はどうも苦手だ。
僕としては、「もてないならそれでいいじゃん。迷惑かけてるわけでもないんだし」と思ってしまう。
だがあそこでは往々にして「もてない自分」を認めつつも、それが世に対する反発心に転換されている場合が多い。
つまり、「もてない自分」を弱者と置く事で、自分自身を弱者と認める事で、弱者に仕立て上げた世の中に対し怒りをぶつけているわけである。
自分が「社会的弱者」に立っている事を自棄的に認め、その責を世間に押し付け糾弾するという行為は、どうも違うんではないかと思ってしまう。

いいじゃん。社会的弱者だろうと。
「社会」とやらが弱者と決めようと、「世間」とやらが弱者と決めようと、そんな一方的で勝手な決めつけとは別に、自分自身の価値は、貴方の価値は存在するわけである。

すんげー当たり前の事書いてる気がするけれど、そう思うのだ。
そしてできれば、それを体現していきたいと思っている。

誰かに否定される事は悲しい事だけれど、それが世間からの否定ならもっと悲しいことだけれど、
それでも他者の評価とは関係ないところで、貴方の価値は決まっているのだ。

こりゃ自分に言い聞かせる言葉だな。半ば。