許されるなら

許されるなら、やりなおしたい。何度でも。

まず中学、いや小学校くらいまで戻りたい。もちろん今の記憶を持ってやり直すというのが前提だが。
今になってみれば「あそこが転換期だったな」と思える要所要所をやりなおし、その結果どうなったのかを見てみたい。
可能性としての話だけではなく、「実際そうなり得た自分」をはっきりと自覚してみたい。

「今の自分がいるのは、その時その時ベストを尽くした結果だから、後悔は無い」とか言い切っちゃう人が時々いる。
いやそれ嘘だろ絶対。
もしそれが嘘じゃなくて本心なら、もう僕と貴方の人生、見てきた物、考え方、すべて完膚なきまでに異なるのでしょうね。
後悔だらけ。
だからよく妄想をする。現実味のない妄想を。あの日別な道を選択した自分を。

やりなおしたい。でもそれが出来ないのはわかっている。
だからせめて、「違う道を選んだ自分」を可能性としての妄想ではなく、実在しえた存在として認識したい。

最早その僕と、今の僕は別人なのだろうが、パラレルワールドで暮らす違う道を歩む僕を見て、僕はきっと純粋な気持ちに還れると思うから。

もしその「別な僕」と対話する機会を与えられたら? やめてください。対話してしまったらきっと殺意を抱きます。
あくまで、関係の無い他人としての僕だから受け入れられるわけで。
街を行き交う恋人を見ても、河原で生活する人を見ても、演説をしている政治家を見ても、逮捕された犯罪者を見ても、僕は等しく他人であるがゆえに純粋なままの気持ちでいられる。
願わくば全ての人に幸あれ。その「全ての人」の中に僕自身が含まれるのであれば、僕は何度でも祈れる。
でも生憎、僕は僕自身を他人と同一視する事が出来ないわけで、「全ての人」に入れないんだよなぁ。
結局自分自身は救われず。