思考

物事にもよるが、昔はある程度の思考は言語に頼らずしていたような気がする。
いつからか言語化されないと自分の思考自体を把握できなくなって、それ以来常に頭の中では日本語が飛び交っているわけだが。
言葉というのは当然自由な思考を制限する物であり、泣いている時ですら何故泣いているのかを日本語で考えるようになって、僕の思考はかなり制限されるようになったと思う。
言語化が進めば進むほど、思考は言語の法則に従うようになり、ロジカルにはなれどある種の貴重な奔放さは確実に失われていった。
結局のところ、その奔放さを自ら制御できなかったから、言葉で縛るようになっていったのだろう。
もちろん悪い事ばかりではなく、言葉での思考は言語ルールに基づいている故に決定的な矛盾は生み出し難いし、また矛盾点に気づきやすいという利点もある。
なにしろ別種の思考であってもその言葉を付き合わせれば、矛盾しているか否かが即座にわかるのだから。
これは理論武装と言って良いのかもしれない。だがこの種の理論武装は常に弊害を持つと思う。
言語によって縛られた思考は、公道しか、地上しか走れない車と同じだ。元々空を自由に舞う鳥だったはずなのに、その自由を自ら捨てて何故か不自由を選択している。
ひょっとすると、この不自由を選択したという行為自体が大いなる矛盾であり、言語による思考はその根本に矛盾を抱えた砂上の楼閣のような物なのかもしれない。
我々の暮らしも、また似たようなものだ。