DISCOMMUNICATION〜21世紀の僕らの断絶〜

なんか雑誌の特集でありそうなタイトルを付けたくなって、タイトル先行。

昨今の若者は、とかく「コミュニケーション能力に欠ける」とか「仲間のみで集まり、その閉じた世界でのコミュニケーションしか出来ない」とか、まぁそんな感じで「パーソナルコミュニケーション能力」を問題とされることが多いと思う。つってもこんなのいつの時代も「若者は〜」的な感じで言われることなのかもしれないけど。

で、コミュニケーションツールだけで見れば、確実に便利になっているわけである。
携帯電話、ネット、メールと、一昔前じゃ考えられないほど、常に「繋がっている」ことが可能だ。
四六時中電波が行き交って、ほぼリアルタイムにメールのやり取りをして、どこにいてもケータイで繋がって、どんなに離れていてもインターネットでやり取りできる。
コミュニケーションをする為の回線はどこにいても繋がり、多様なチャンネルが常にオープンな状態になっていて、トラフィックは24時間円滑に伝達されることが可能だ。
なのになぜ、断絶感ばかりが強まるのだろうか? あるいは、強まったとされるのだろうか?

常に繋がっている故の渇望

人間、無い物、想像出来ない物に関して渇望することは少ない。
例えば自分がとんでもなく貧しい家に生まれたとして、高級レストランで食事をする妄想をすることはあっても、現実にそれを渇望することは少ないだろう。
ハナから諦められるのだ。
だが、なまじ中流階級だと始末に悪い。頑張って手を伸ばせば届くかもしれない物というのは、絶対に届かない物よりも、より当事者を悩ませる。
ってな感じで、なまじ四六時中「繋がりっぱなし」「回線開きっぱなし」になったからこそ、常にトラフィックが流れて来る事を期待して、渇望するのではないだろうか。
よーするに、昔だったら会わずにコミュニケーションするには固定電話(家にいないとダメ)と手紙くらいしかなかったから、ある程度「諦め」がついたものが、いつでもコミュニケーションできるようになったせいで、逆に妙な強迫観念になっちゃった、みたいな。

実はそんな便利になってないよ

で、仮に四六時中メールしたとして、それでコミュニケーションが成立し、満たされるかっつーと、実はそうでもないと思う。
メールってのは、圧倒的に情報量が少ない。文字情報しかないのだ。
文字情報ってのは、伝達事項を事務的に無駄なく伝えるには適しているが、感情だのなんだのといった物を伝えるには圧倒的に情報が少なすぎる。
そこでたかが数百文字程度のメールで、感情やら何やらを伝えようなんて、素人には無理な話だ。じゃなきゃ小説なんてもんがあんなに売れるわけないし、小説家なんてもんが成立しない。
人は言うまでもなく、対話する時、相手の仕草やら表情やらも読み取って対話する。言葉以外の諸々の情報を含めてのコミュニケーションだ。
まぁ実際「言葉以外の情報」ってのがいろいろあるせいで逆に伝わらない(相手に伝える意図でやったわけではない仕草を深読みされるなど)もあるけど。
で、友人と会話するように友人とメールをしていたのでは、当然伝わるわけはない。
いやそりゃ上辺だけのどーでもいいような話なら伝わるだろう。てかまさに昨今の若者が〜とか言われる部分ってのがココだろう。
電話にしてもメールにしても、対面しないコミュニケーションは、情報量が不足する為、深い部分まで伝えるのが困難だ。
結果、質より量ってな感じで、浅いコミュニケーションを沢山繰り返すことになる。
浅いコミュニケーションってのは、物凄い腹減ってる時に食べる間食みたいなもんで、一時的には凌げても、根本的な空腹を満たす物ではない。
故に渇望する。

上で言ってること

全部適当に言ってるわけだけど。

24時間オンラインになったのはいいものの、オフにする術がなくて逆に縛られてるんちゃうんか、と。
んで、オンになってるから当然色々情報伝達するけど、データ量に制限あるから上手く伝わらなかったりして、相互不理解に陥るケースがままあるんじゃないか。

とまぁそんだけの話。
便利になるって、逆の見方すれば不便になるってことでもあるしね。
ディスコミュニケーションについて語る前に、そもそも自分の文章が相手に理解を求めてない部分のほうが問題なわけだが。