言語化と議論

とまぁここまでうだうだと書いたけど、実は現代人って議論を必要としてないんじゃないの? と思う。


誤解を恐れず言えば
A「これいいよね」
B「だよね」
C「え、ここがダメだと思うんだけど?」
A,B「あ、そ。人それぞれだから」
という風潮である。


つまり、言語化せずに済む同じ感覚の持ち主としか会話せず、同じ感覚を共有出来ない人間に言語によって説明することを放棄すれば、そもそも議論自体が必要なくなるわけである。


「なぜこれが優れているのか」「どこを自分は評価しているのか」「どこを面白いと感じたのか」と言ったことを、稚拙でも良いから自分なりに言葉にしないことには、議論はもちろん、「自分がなぜそれを好きなのか」すら語れない。

「好きだから好き」としか言えないわけである。


「このゲーム超面白いからやってみ。やってみればわかるから」としか言えないのと一緒で、「何がどう面白いのか」が言語化できなければ、体験したことのない人間は面白さが理解できないし、共有も出来ない。
また体験したことのある人間同士でも、「あれすごいよね」「ねー」で終わり、「何がどう他と比べて凄いのか」を語り合うことは出来ない。


それで構わない。人それぞれ。言語化するなんて面倒。わかる人だけわかればいい。


それって現代風だとは思うけど、どーも自分は馴染めないわけで。