相対性理論的四次元話

物理学をやってる人でも、日常から四次元的に考える習慣のある人は少ないのではないかと思う。
例えば三次元的に見れば、あなたが今日行った○○町○○番地のあの場所は、区画整理でもない限り永遠に○○町○○番地であるわけだけれども、四次元的に見れば2007/08/30のあの場所には二度と行けないわけである。
そういう意味で、我々は常に一期一会だ。
同じ個体と識別されていても、常に変化を続けている。
5秒前のあなたと5秒後のあなたは、必ずどこかしら違う。違わないというならば、それは変化に気がついていないだけで、必衰なのは盛者だけでなく、仏教徒ではないが諸行無常は一つの真理なのだ。

色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず

諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅爲樂
まぁどんな宗教でもそうだけど、開祖が死んだ後の解釈なんてのは大抵クソだったりする。


「好きな宗教は?」と聞かれたら(聞かれることも滅多にないけど)「キリスト教」と答えることにしている。
いろんな意味で面白いからというのが理由。


だが、最も偉大な哲学者という意味では、釈迦はソクラテスに勝るとも劣らない偉人であろう。
釈迦の最大の悲劇は、その教えの宗教としての側面のみが後生に広く利用され讃えられた点ではないだろうか。


というわけで、僕は墓参りにも行かなければ教会にも行かないし、神棚に拝むこともなければ仏壇に拝むこともありません。
いやまぁ常識の範囲内ではやるけど。内心その行為こそが反信仰的行為だとは思っています。


開祖様が「○○しちゃダメ」とか「○○する必要などない」と仰ってるのに、それに反して「ここで仰っていることをこう解釈したらこうなるんだから、○○しなさい」とか言い出すのは、最大の冒涜じゃね? と。


まぁそんな宗教学ちゃんとやってるわけじゃないから知らないけど。

解釈

この解釈って言葉は非常に便利に使われるわけで、身近なところで言えば憲法解釈を見れば明らかだろう。
もうね、常識的に考え(略


メチャクチャな解釈を平気で声高に叫ぶってのは、「僕は文章がまともに読めないヤツです」って宣言してるか、あるいは「都合良くねじ曲げて利用したいだけなんです」って宣言しているようなもんで、まともに原文読むなりなんなりすれば、そういうトンデモな解釈を言ってるヤツは自然と淘汰されるはずなんだけどなぁ。
勘違いやら間違いでトンデモ解釈言っちゃってるだけなら、気づいた人が指摘すれば改められていくわけだし。


結局、「政治家だから」「有名人だから」「教授だから」とかそういう権威のみを見て発言の内容を見ない人たちが、「なんか偉い人がこう言ってるんだから、この解釈で間違いないんだろう」ってなって、原典に当たるとかの行為をせずに、原典読めば小学生でも間違いだってわかるようなことを信じちゃうんだろうなぁ。