クリスマスの少し前の日曜日のこと

 十二月の晴れた日曜日、僕はいつものように、近所のスーパーに買い物に出かけた。
 クリスマスを前にし、駅前にはツリーが用意され、商店街は電飾で彩られ、街はどことなく活気づいた雰囲気になっていた。
 行き交う人々の顔も、幸せそうだ。日曜の夕方はいつもそうだけれど、十二月の顔は特別に見えるのは、気のせいだろうか。
 別にクリスマスに対し、何の感慨もない僕だけれど、イベントを前にした街の、この雰囲気は嫌いではない。
 そういえば、クリスマスやお正月、誕生日などを気にしなくなったのは、いつからだろう。子どもの頃は、もっとわくわくして、何か特別なことが起こるような、そんな気さえしていたのに。
 そんなことを考えながら、クリスマスソングが流れるスーパーの中で、いつもと同じような物をカゴに入れ、いつもと同じようにレジに並び、いつもと同じようにポイントカードを差し出し、会計を済ませる。
 もう幾度となく繰り返してきた作業だ。違うことといえば、シュークリームやエクレアなどのお菓子を買って、帰り道に食べることがあるか、ないか程度の、些細な差。そして今日は、アイスクリームを買った日だった。
 帰り道にある公園に寄って、ベンチに座り、スーパーの袋からアイスクリームを取り出し、食べる。もう真冬といって差し支えない気候で、日が沈んだ後の公園は、痛いくらいに寒かった。
 寒い中で食べるアイスは、夏に食べるのとはまた違った趣がある。夏に食べるそれとは違って、アイスクリーム自体を深く味わえるような、そんな錯覚。
 ちょうど半分ほど、アイスクリームを食べ終えた頃だったと思う。そこで僕は初めて、隣のベンチに人が座っていることに気がついた。
 いつからそこにいたのだろうか。少女というほど若くなく、大人というにはまだ早い――そんな女の子が、一人で座っていた。
 ダークグレーのダッフルコートを着て、口元まで覆うようにマフラーをし、両手をコートのポケットに入れ、所在なげに公園の中を見つめたまま、微動だにしない。
 きっと僕が公園に入ってきた時から、ずっとこうしていたのだろう。放っておけば、明日の朝まで――いや、ひょっとしたら永遠に――このまま動かないのではないか、そんな風にさえ思えるほど、その女の子は風景に溶け込んでいた。
 何をしているのだろうと気にはなったが、その時の僕は、何よりこの寒さに参っていたし、不審がられるのも嫌だったので、そのまま帰宅した。



 夜、スーパーで買ってきた材料を使い、夕飯を作り、食べ、風呂に入る。これももう、数え切れないくらいに繰り返した作業。
 時計を見ると、まだ寝るには早い時間だったので、煙草を吸うついでに散歩に出かけることにした。
 寝る前に散歩をすることもあれば、しないこともある。スーパーからの帰り道、アイスクリームを食べることもあれば、食べないこともある。僕の生活の変化なんて、その程度でしかないのかも知れない。
 この辺で、灰皿の置いてある場所といえば、夕方、スーパーの帰り道に寄った公園だ。
 外は相変わらずの寒さで、吐く息は白く、すぐに手がかじかんだ。寒いのは得意ではなかったけれど、寒い中散歩をするのは、嫌いではなかった。少なくとも、夏の蒸し暑い夜に散歩をするよりは、ずっと。
 公園に着き、上着のポケットから煙草の箱を出す時、「ひょっとして、さっきの女の子は、まだあのベンチに座っているのではないか」と思い、そちらを見ると、夕方見た時と寸分違わぬ格好で、その子は座っていた。ひょっとしたら僕は、彼女がまだいやしないかと期待して、散歩に出たのかも知れない。
 公園の中で灰皿があるのは、彼女の座っているベンチの横だけだ。自然、僕は彼女の隣のベンチに腰掛け、煙草を一本取り出す。
 煙たいかも知れないな、と思い、少し気が咎めたので「煙草を吸っても良いですか」と声をかけた。
 彼女は、まるでその時、初めて僕に気がついたかのように、首から上だけを動かし、僕を一瞥した。そして再び、元のように――夕方もそうしていたように――公園の中へ視線を戻した。それを了承の合図と受け取り、煙草に火を付け、煙を吸い込む。
 彼女はずっと、ここにいたのだろうか。気にかかり、横目で見る。微動だにしないその子は、まるで朝からそこにいたようでもあるし、もう何日もそこにいたかのようでもあった。それは、長年かけて成長した木のように周囲に溶け込んでいて、最早景色の一部と呼べるほどだった。
「大丈夫ですか」
 僕はたずねた。
 大丈夫――とは、いったい何がだろう? 我ながら間抜けな質問だ。だが、彼女の持つ雰囲気が、浮き世離れしたような空気が、何かとても儚い物のような、大切にしなければいけない物のような気がして、僕は声を掛けずにはいられなかった。
 彼女は先ほどと同じように僕を見ると、
「何が?」
 と返してきた。だが、そこには不思議と、見ず知らずの男に声を掛けられた、ということに対する、警戒心のような物は感じられなかった。
「いや、夕方からずっとそこにいるみたいだから、寒くないかと思って」
「寒いよ」
 彼女は即答する。そして再び、視線を公園の中へと戻した。
「寒いのは苦手だけれど、寒い時に公園にいるのは嫌いじゃないんだ。おじさんは?」
 視線は変わらず、公園の中に向けたまま、今度は彼女が僕にたずねてきた。
 ――おじさん、か。まだ二十代なんだけどな、などと思ったが、おそらく彼女の年齢から見れば、僕は既に「おじさん」なのだろうと諦める。
「寒いのは、僕も苦手だね。でも、寒い中、煙草を吸うために散歩するのは、嫌いじゃない」
 その時、初めて彼女の表情が動き――口元までマフラーをしていたからわからなかったけれど、きっと微かに笑ったのだろう――ちらりとこちらを見て「じゃぁ、私と一緒だね」と言った。
「おじさんは煙草を吸うために、わざわざ公園まで、散歩しに来たんだ」
「別に煙草を吸うためってわけじゃないけど、まぁ、煙草を吸うついでに、かな」
 今思えば、煙草を吸おうと思ったのも、この公園に来たのも、彼女の持つ、引力のような物に惹きつけられてのことだったのかも知れない。
「君は? 夕方からずっといるみたいだけれど」
 気になっていたことを、彼女にたずねる。誰かと待ち合わせだろうか。それにしては長すぎる。あるいは家出か。それともただ単に、本当に公園が好きなだけなのか。だが、彼女の返事は、僕のどの予想とも違っていた。
「私はね、『すり減っていること』を感じているの」
「すり減っている?」
 思わず聞き返す。
「そう。すり減っていくのを、ここでじっと座って、感じているんだ」
「えーっと、すり減っていくって、何が?」
 僕には、彼女が言っていることの意味がわからなかった。彼女がずっと見ている辺りを、僕も見てみるが、そこにはブランコや砂場など、どこの公園にでもあるような、変わり映えのしない物が置かれているだけだった。
「すり減っていくのは、私自身」
 僕が彼女の視線を追って、「すり減っていく物」を探そうとしたのが伝わったのだろう。彼女が言った。
 それは精神的な話だろうか。若い、多感な時期にありがちな、感傷か。
「おじさんは感じない? 自分が毎日すり減っていくって。こうしている間にも、すり減っているって。私はそれを、ただここで、じっと感じているの」
「それは、心とか、気持ちとか、そういう精神的な話だよね?」
 すり減っていく――。感受性とか、感性とか、若さとか、命とか。それは確かに、日々すり減っていく物かも知れない。
「そう。精神的な話。だけど、それは私自身でもあるの。すり減ったそれは、もう二度と戻らないし、すり減った私は、すり減る前の私とはもう違う」
 彼女の言っていることも、わかる気がした。歳を重ねるごとに得る物もあるけれど、失う物もある。その喪失を、すり減ると表現しているのだろう。
「でも、それって誰もがそうなんじゃないかな。誰だって、生きていく以上、何かを失ってる。何も失っていないという人だって、確実に『時間』を失っているんだから」
 そうやって、人は変わっていく。多分誰だって。
「ええ、そうなんだと思う。そして、それは誰にも止められないんだと思う。熱力学第二法則のように」
 なんだろう。どこかで聞いた台詞のような気がする
「私はこんな世の全てを、別に憎んでいるわけじゃないけど」
 そういって彼女は、大げさに肩をすくめてみせた。
 しかし僕は、見ず知らずの女の子と、なんて会話をしているんだろう。
「だからただ、すり減っていくのを感じていた?」
「そう。せめて、『すり減っていること』を、忘れてしまわないように。そうしていないと、『すり減っていること』すら忘れちゃいそうだから」
 少しだけ、彼女の持つ雰囲気の秘密が、わかった気がした。きっとそれは、達観、あるいは諦観と呼ばれる物に近い感じなのだろう。それが彼女を希薄にし、存在感を失わせ、風景に溶け込ませている要因の一つなんだと思った。
「ねぇ」
 僕がそんなことを考えていると、ふいに彼女が立ち上がり、僕に向き直って言った。
「昔、『自分が男じゃなかったらな』って思ったこと、ない? 私の場合は、『女じゃなかったらな』だけど。
 あるいは、周りの大人を見て『自分も歳を取ったら、こうなるのかな』って思ったことは?」
「どっちもあるよ」
「そう。やっぱり、一緒だね」
 今度ははっきりと、彼女が笑ったのがわかった。だがそれは、苦笑いのような、自分自身を冷笑するかのような、悲しい笑顔だった。
「私はずっと怖かったんだ。ううん。今でも怖いんだと思う。すり減ることは仕方のないことなんだって、どうしようもないことなんだって、そう思うけど、いつか本当にすり減って、すり減って、『すり減っていること』にすら、気づけなくなってしまうのが」
「わかる気がするよ」
 本当に自然に、言葉が出た。
 確かに、わかる気がする。いや、自分もかつては、そうだったのではないだろうか。日々の出来事に、季節の移ろいに、なんてことない些細なことに、心が動かされなくなるよう日が来ることを、ひどく怯えていたのではなかったか。
 でも、僕は今やクリスマスを前にしても、大して気持ちは揺るがず、毎日同じことを繰り返し、同じように生きている。心はいつも平穏そのもので、凪いでいると言えば聞こえは良いが、それはつまり、彼女の言う「すり減った」結果と言えるのではないか。
「だから思ったの。ひょっとして、私が男に生まれていたら違うんじゃないか、あるいはもっと大人になれば、この、すり減っていく感じと上手く付き合って行けるんじゃないか、って」
 なるほど、彼女にしてみれば、自分の感覚は女性故の物かも知れず、また、大人になれば上手に処理出来る類の物に感じたのだろう。
 でも残念ながら、それはきっと、どちらも間違っている。
 彼女が自分で言ったように、それは『誰だってそう』だし、大人がそのことに悩んでいないように見えるのは、大抵の場合、『すり減っていること』すら忘れてしまったか、毎日を生きることに精一杯で、そんなことを考えている余裕すらないのか、そのどちらかなのだから。
「それは多分――」
 違うと思う。そう言おうとした瞬間、彼女に遮られた。
「わかってる。ううん、今日、わかった。私が男に生まれていたとしても、この気持ちからは逃れられないんだって。そして、私が大人になったとしても『すり減っていること』を忘れてしまうことは出来ても、決して『すり減っていること』それ自体と、上手に付き合っていけるわけじゃないんだって」
 それは僕が考えていたことと、全く同じだった。
 でも、仕方がないじゃないか。
 誰だって、すり減りながら生きていく。それに耐えられる人もいれば、耐えられない人もいる。
 そして、すり減ることは、誰にも止められない。
 だとしたら、それに耐えられない人は、忘れるしかないではないか。自分がすり減っているという事実を。幼い頃の精神は徐々に損なわれ、日々、自分の心が摩耗しているという事実を。知らない間に、大人になってしまっているという事実を。
 それを『成長』と呼ぶ人もいるだろう。ひょっとしたら、これを歓迎している人すらいるのかも知れない。それも正しいのだと、『すり減っていること』のもう一つの側面なのだと、思う。変化はいつだって、進化と退化の表裏一体だ。
 でもやっぱり、どうしても、どうやっても、それに耐えられない人は、忘れるしか、いや、忘れたふりをするしかない。それについて考えないようにし、忘れたふりをして、そうしている内に、いつしか本当に忘れてしまい、やがて素知らぬ顔で『大人』の仲間入りをするのだ。そして、今、はっきりとわかるけれど、多分僕もそんな『大人』の一人になってしまっていたのだ。いつからか、自分でもわからない内に。
 なのに、彼女は――
「だから私は、『すり減っていること』を、この先何があっても、絶対に忘れないように、感じていたの」
 はっきりと、そう言った。
「それは――それはきっと、とても辛いことだと思う」
 僕には、そう答えるのが精一杯だった。果たして僕に、ここまでの覚悟があっただろうか。大人になった自分を見て、絶望して、それでも『自分は絶対に忘れないように』と言えるだけの気持ちが、あっただろうか。
 きっとあったのだろう。少なくとも、目の前の彼女の中には、ある。景色に溶け込むほど存在感のなかった彼女だが、『絶対に忘れない』と宣言した時のその目は、何よりも――今の僕なんかよりもずっと――力強く感じられた。そして、彼女の中にあるのなら、きっと僕の中にも、かつてはあったのだ。
 いつ、どこでなくしたのか。それすら思い出せなくとも、それは確実に、かつての僕自身の中にあったはずの物なのだ。



 失った物は取り戻せない。そう、エントロピーは増大する。
「もう一本煙草を吸っても良いかな?」僕はたずねた。
「ええ」彼女は答えた。
 それでもせめて、この煙草を吸い終わるまでの間、僕も感じようと思う。すり減っていることを。