感情と言語

僕は誤解される事を酷く恐れている。そしてその一方で、他者に完全に理解してもらう事など不可能だとも思っている。
僕が何かで心を動かされ、その気持ちを伝えたい時、僕は必要以上に言葉を尽くす。
理解を求めているから、言葉を尽くすのだ。そして同時に、理解されないと思っているから言葉を尽くすのだ。
心の動きを、気持ちを、完全に言葉にすることなんて不可能だろう。
不可能ならば、最初からそれを完全に変換する事を放棄して、抽象的表現に留めた方がより的確に伝わる場合もあると思う。
それはわかっているつもりだ。
だが、僕は言葉を尽くさずにはいられない。不安なのだ。
言葉を、言語を介さないコミュニケーションで何処まで伝わるのかが不安なのだ。
言語を介さないコミュニケーション、無言の意思疎通、以心伝心と呼ばれるようなものは、一種の賭けであると思っている。
言葉を使えば、100%は不可能にしても、ある程度の気持ちは言葉に変換して伝えることが出来る。共通の言語という基盤があるのだから、伝達も容易だ。
もちろん人の気持ちなんて言葉に出来るものじゃないから、言葉を尽くせば尽くすほど、最初の気持ちから離れていってしまうのだが。それでも気持ちの何割かは確実に(それが言語化により歪められていたとしても)伝えられると信じている。
だが、言語を介さないコミュニケーションでは話が違ってくる。
まず、相手が理解してくれているのかどうかを言葉により判断する事ができない。
「言わなくても伝わっているだろうな」という錯覚にも似た感覚でしか判断できないのだ。
そしてそれは、誤解を恐れる僕にとって恐怖の対象である。
完全に誤解されて気持ちが全く違った形で伝わるくらいなら、言葉を尽くして自らの手で気持ちを汚してしまった方が気が楽だ。
だから僕は言葉を絶対視する。


だが、世の中には言葉を絶対視しない人も多い。
相手の言葉ではなくその裏にある「本当の気持ち」を読み取ろうとする人や、言葉ではなく自分の「本当の気持ち」を伝えようとする人たちだ。
とくに恋愛においては、こういう状況が多いのではないだろうか。
僕はこういう人たちが羨ましくもある。
何故なら彼らは、気持ちその物と向き合って、それその物をありのまま理解しよう・してもらおうとしているからだ。その点で彼らは純粋であり、尊敬の対象足りうると思う。

それでも、僕は今日も言葉を尽くしていく。
誤解を恐れ言葉を尽くすが故に、真の理解は得られないのだと知りつつも。