代名詞

君と僕の見ている世界は、確実に違う。君と僕は決してわかり合う事なく死んでいくのだろう。君と僕の魂は交換できないのだから。
上記のような一文を目にしたとき、あなたは「君」という所に誰を当てはめて考えるだろうか?
本来これに関して正解やらなんやら言うのは野暮なのだが、あえて書いてみる。

まず僕の場合だが、僕がこういった文章を書いた時は、リリシズムを気取っているだけの事が多いので、「君」というのは僕のイメージの中にすら存在しないただの言葉である場合が非常に多い。
冒頭の文章に戻るが、『君と僕の見ている世界は、確実に違う。僕らの魂は〜』この場合僕というのは僕自身の事だったとしても、君というのは誰か特定の個人を指しているわけではなく、まさに他者を総称しての「君」なのである。
よーするに「人間誰しも、同じ物を見ていても目とか脳が違うんだから同じように見えてるわけないよね。同じようにしたいなら魂交換しないとね」という話であり、決して特定の個人と僕とについての話ではない。故に「君」という言葉は漠然とした他者を総称してのイメージでしかない。

さて、僕は今まで主にそういうスタイルで稚拙な文章を書いてきたつもりだし、また稚拙ながらもこれで理解されるだろうと思ってきた。多少の勘違いはあるにせよ、大筋からは離れないだろうと。
が、どうもそうではないようだ。

事に気がついたのは皮肉にもバレンタインデーというイベントのおかげだ。
イベントに絡んで自然と恋愛やら彼氏彼女やらの話になったときに、どうも僕には特定の恋人がいると思われていたらしいという事がわかった。
何故そう思ったのか理由を問いただすと、どうやら僕の書いている文章(このはてなのスペースも含む)が原因との事。
つまり、僕がリリシズムを気取って多様しがちな代名詞を、全て恋人や特定の好きな異性を指して書かれた物だと捉えたらしい。
帰宅してから試験期間にも関わらず、出来る限りここ一年で自分が書いた文章を読み直したくらいに、衝撃を受けた。
確かにそう読めない事もない。無理をすれば、いや、最初から「僕と君」という時の「君」は異性で当たり前であり、「君」と呼称するからには特別な感情を抱いた対象に違いないという先入観を持って読めば、確かにそう読めるところもある。
誤解された事自体にも驚いた。だが何よりも驚いたのが、僕自身がそれを全く想定していなかった事だ。

一般的に恋愛小説などで「あなた」や「君」「あの人」といった言葉は、恋人なり想い人なりを対象に使われる。だからこそそれらの言葉はリリカルな響きを持つのだ。
そして僕は、そのリリカルな響きだけに憧れ、それらの言葉を、それらの言葉が指す意味だけを全く変えた形で使用していたのである。
無意識の内に洗脳されていたと言っても良い。

どちらが? 洗脳されていたのは、僕か、読み手か。
多分両方だ。
僕は恋愛至上主義を基本とする世界に触れ続ける事で、「あなた」「君」「あの人」といった代名詞が、無条件にリリカルな物だと勘違いしたのだろう。実はそれらの言葉が恋愛を舞台に使われていたからこそ、リリカル足りえたのに。
読み手は恋愛至上主義を基本とする世界に触れ続ける事で、「あなた」「君」「あの人」といった代名詞は、恋愛に関する場面でしか使用されないといっても過言ではない言葉の一つだと思うようになったのだろう。

この事は非常に強く僕の興味を引いた。
例えばテレビCMなどで、「あの人の家に遊びに行きました。素敵な一日でした」というフレーズを使用したとしたら、一体どれだけの人が「あの人=特に親しい異性」と捉えるのだろうか?
その答えは即ち、恋愛至上主義に取り込まれた人間の割合でもある。
そして恐らく僕も、未だその影響から逃れられない一人なのだろう。

僕がレースに参加しなくとも、今日も地球のどこかでレースは行われ、そして僕は決してそれとは無関係ではいられないのだ。