罰ゲーム

「何が一番恥ずかしいか」
この前久しぶりに会った友人と、そんな話をした。
自然と下ネタの方に話は進む。「全裸を見られるのは確かに恥ずかしいかもしれないけれど、見られるのを覚悟した上で見せているなら恥ずかしくないよね」という話に。
確かにその通りかもしれないな、と思う。文章もそうである。
僕の場合、文章を読まれるというのは恥ずかしい行為の一つだ。
つまりここでこんな文章を書いている事自体が公開自慰行為と等しい。精神的露出狂である。
だが、露出狂の人間も恐らくそうだろうが、「見られる事を想定した上で見せている」のであり「見られる事を想定していない時に見られている」という場合は、通常の露出とは全く違った恥ずかしさに襲われるだろう。
(ひょっとすると真に露出狂の人間は、その方が嬉しいのかもしれない。その意味では僕は違うのか)

見られているとわかって見せている分には問題ない。だが見られているとわからずに見せてしまった時が、少なくとも僕は一番恥ずかしい。
(例:読むわけないだろうと思って書いた文が読まれていたり、こっちを見ていないと思って着替えたら見られていたり)

こんな話をしていたら、「では見られると予め想定していれば、際限なく見せても平気なのか?」という話になった。
見られる事を想定していれば全裸だろうが恥ずかしいポエムだろうが堂々と公開できるか、という事である。
僕はそこで「多少の気恥ずかしさは当然残るだろうが、それでも見せると決意して見せている以上、『見られている』ではなく『見せている』になるのだから、恥ずかしさはかなり軽減されるだろう。発想の転換だよ。能動的であると意識すれば恥ずかしさは軽減されると思う」という主旨の発言をした。
それに対し友人は、「見せたのか見られたのかよりも、問題は見せる(あるいは見られる)物が、見られる事を想定して作られたかどうかだ。常日頃から体を手入れしている人間は、見られてもさほど恥ずかしくないだろう。見られる事を想定して書かれた文章は、人に見られても恥ずかしくないだろう。だが見られる事を想定せずに書かれた文章の場合、たとえそれを能動的に見せたとしても、恥ずかしいはずだ」と言っていた。

さてその後些細な賭けをして、これをどちらかが身をもって検証するという事になったのだが、自他共に勝負弱いと認める僕が、目出度く負けて自ら検証する事となった。
(余談だが、パワプロで言えばチャンス×、負け運持ちといったところか)

その結果、「読まれると想定していなかった文章(特に詩や小説、それも思春期の頃書いた物があればそれがベスト)を自ら公開して、恥ずかしいかどうか検証する」という大役を担う事になった。

いやもうさ、公開しないでも十分恥ずかしいのはわかったから、検証終了でよくない?
僕が間違ってましたごめんなさい。やっぱ恥ずかしいです。