子供

児童の犯罪被害の多い昨今、うっかり「子供が好き」なんて公言しようものなら、途端に変質者扱いされかねない。
もちろんここで言っているのはペドフェリアのような性愛を含む「好き」ではない。
そもそもホモサピエンスとして同類の子供を保護しようと思うのは種の保存として当然であり、生物としての本能的な部分で、子供が好きなのは当然なのである。
と、力説すればするほど、益々児童偏愛者に見られかねないのが困る。
声高に力説する事を恥とする文化はわからないでもないが、その文化のせいで真実を主張する者すら、その主張の内容よりも「必要以上に力説している」という点で判断を下されてしまう。
要するに聴衆側に、語られている内容が真実か否かを判断する能力が足りていないため、容姿や語り口調などで判断をするという、酷く非論理的な結論の出し方をしているという事になるのだ。だがそれにとやかく言っても、そもそも聴衆に論理的帰結を導く能力がない事が前提なのだから、どうしようもない。
というわけで、誰かに何かを訴えたい時には、訴える対象の事まで考慮して訴え方を考えて訴えなければならないわけである。ああ面倒臭い。
主張している事がどんなに間違っていても、涙ながらに語れば一票入れてくれる有権者もいるわけである。
逆にどんなに主張している事が正しくても、声が気に入らないという理由で投票しない有権者もいるわけで。
それらを愚民と嘲るのは容易いが、その愚民に理解出来るように主張できない側も、また能力が足りていないのである。
難解な言葉で真実を語る者についてくるのは、その言葉を理解できる賢者だけである。
甘美な言葉で虚偽を語る者についてくるのは、真実を判断できない愚者だけである。

そして、甘美な言葉で真実を語れる者こそが、全ての者を率いる事が出来るのだろう。