たとえばたまたま夕方出かけた日に限って夕立に遭う可能性について

我々が何かを観測しようとする時、我々はどうしてもまず観測する側(自身自身)を観測する事を忘れがちである。
例えば空の星を観測し、星が動いているのを知った時、星を観測している自分も動いているということに、すぐには気づかないように。
チューニングの狂ったギターでの演奏しか聴いた事のない人は、正しくチューニングされたギターでの演奏を間違いだと感じるだろう。
ドの文字だけでは何の音も成さない。ドという文字が特定の周波数の音と結びついて記憶する事によって、ドという文字でドという音が認識できるようになるわけだ。
言葉も同様である。ここに書かれている物は、日本語を解さない人にとっては何の意味も持たない線画でしかない。
文字自体に意味があるのではなく、意味と共に文字を記憶する事によって、両者が観測者の中で結びつくのだ。
その観測者の中で結びついた記憶は、必ずしも正しいのか? 否。
ある日ドレミが全て半音階上がっていて、我々が記憶しているドは全てシで、我々の想像するファは実は全てミなのかもしれない。
いくらそれがドに聞こえても、それは貴方の記憶しているドがドではないだけの事なのだ。
我々がいくら動いている事を感じられないからといって、それは地球が回っていない事の証明にはならない。
感覚で感じられないことは存在していないことと同義ではない。また逆に、感じられるだけでは存在していることの証明にはならない。
我々は日常の中で、我々が立つ大地が回っている事を信じて疑わない。回っている事など感じていないというのに。
権威ある情報は疑う余地もなく真理として受け入れられ、かくして地動説は今や天動説を凌駕し人の心に根付いている。
自らが立つ大地が回っている事を証明できる者がどれだけいるというのか。それでも我々は信じているのだ。今日も大地は回っている、と。
なぜなら我々は我々自身を観測する術を持たず、その術を持つ誰かの言葉を信じるしかないのだから。
例えばたまたま夕方から出かけた日に限って、家を出た途端に雨が降り出して、家に着いた途端に止んだとする。
それがどんなに自らの不運が招いた事に感じられても、何者かの作為かのように感じられても、ただの偶然であり、そして偶然とは因果が招く必然でしかないのだろう。
それが観測できなかった――ただそれだけの事。

と、最近読んだ本の文体に思いっ切り影響されてみた。
文体というより、語彙の問題かね。
でも読み返してみると意味不明。完全に単語先行です。