本題

そんな感じだから、ある程度の約束事を決めるしかない。
算数を例に出すなら、1+1は2で、1+2は3で、9の次は位が上がって10になる、みたいに。
それが真実かどうかは別として、1+1は誰が計算しても2になるという「約束事」を作っておかないと、会話も成立しないのだ。
で、そっから発展して
xの2乗+4x+5=17 さぁxはいくつ?
って話が出来るのである。

実際のところ、議論だの意見の対立なんてのも、この数式の答えが何かを言い合ってるようなもんだ。
ただ、数式があまりに複雑化しすぎて、かつその言い合いの参加者の中に、四則計算もおぼつかない人がいたり、さらには1+1が3であるという約束事で生きている人がいたりもして、会話を複雑化させている。
さて、上記の「xの2乗+4x+5=17」だけど、中学時代のおぼろげな記憶を辿ると、どうやら答えは「2」であるっぽいことがわかる。
だが、ここで「x=2だ!」という主張をすると、対立する勢力がある。「x=-6だ!」という勢力である。
マイナス×マイナスがプラスになるということを信じられない・知らない人は、「x=-6」でもあるといくら説明されても、騙されていると思うだろう。
極端な例だけど。

脱線

閑話休題まで読み飛ばし推奨。
例えばあなたは昔、小学生、あるいは幼稚園生だったころ「なぜマイナス×マイナスがプラスになるのか」「底辺×高さ÷2がなぜ三角形の面積になるのか」「6x+3x+12=0の場合、なぜ2x+x+4も0になるのか」といったことを、全て説明出来ただろうか?
あるいは今、無意識に記憶しただけの三角関数の公式について、瞬時に「サインコサインタンジェントの関係はこれで正しい」と証明できるだろうか?
まぁ出来る人もいるんだろうけど。
数学の公式、特に高校辺りまでの数学ってのは、「なぜそうなるのか」を無視して「これが公式だから覚えなさい。これを使って解きなさい」と教えられるだけのことが多かったと思う。
「なぜインターネットが普及したのか」「なぜ流行が起きるのか」「なぜ円安や円高など円の価値が変わるのか」
こういったことを、自ら検証し、証明していくのは難しい。
結果、誰かに「これが公式だから、覚えなさい」と教えられたことを正解だと思い込み、その公式を使って、自らの考えを生み出していくことになる。

ここに仮に「なぜ法を犯してはいけないのか」を自ら考えることなく、「捕まらなければ、積極的に法を犯しなさい。それが賢い生き方で、抑圧されることのない良い生き方なのです」という風に教えられた人と、「法は犯してはならないものです。法を遵守し、清く正しく生きることこそ、良いことなのです」と教えられた人がいるとする。
彼らは互いにその教えこそが正しいのだと信じていて、自ら「なぜ方を犯す・守ることが良いことなのか」を考えない。
そんな二人が法について語ったとしても、永久に平行線を辿るままだ。

そう、前提の「約束事」が違うのである。
4×5が20かどうかという話をするには、まず、両者が4+4+4+4+4が20だと認識している必要がある。
ところが、片方が16進数の約束事で生活していたり、片方は8進法だったりすると、全く話はかみ合わない。

約束事

我々は、何を話すにしても、最低限の共通の「約束事」が必要になる。
最もベーシックな部分で言えば、言語というのも共通の約束事だ。さらに、喜怒哀楽という感情の存在、帰納法演繹法といった物の考え方まで共通の約束事である場合が多い。
だが、相手がどういった約束事の中で生きているのか、他人には完全には判断できない。
逆に自分がどういった約束事で話しているのか、他人に完全に理解させることも不可能だ。
結果、自らの約束事の中で創造された「客観」を生み出し、自らの約束事の中で相手の考えを想像するしかないのだ。

あ、いつのまにか口調が固くなってる

まぁそういうわけでさー、正しいかどうかってのは見方(約束事)次第で変わるし、その見方(約束事)が正しいかどうかなんてのも、もう色んな要素が複雑に絡まりまくってるから、検証不可能な状態なわけよ。
その上で、僕らが言語ゲーム的会話を楽しむには、最低限「ある種の論理的な事柄を約束事にしましょう」とするしかないんだわな。
でも、じゃぁその約束を万人が受け入れてくれるかっつーと、そんなことはねーわけで。
「理屈じゃ正しいけど〜」ってヤツね。
所詮理屈なんて、マクロに見てベターな状況を選択する為のものでしかないのよ。汎用性は高いけど。