自分基準

ぼかぁなんと言いますか、妙に堅苦しい言葉を使う癖がありまして、別に意識して使いたいわけじゃないのに使ってる時があるわけなんですよ。
地方に引っ越してみて、「あ、これって地方の人が方言話さないように注意してて、妙に変な標準語になっちゃうのと一緒だ」と気がつきました。
ええ、家庭環境は悪くないと思うんですが、根がアホなんですわ。
そんなんだから、意識して書いたり喋ったりしねーと、どんどん言葉が悪くなってって、ただでさえ辛辣なこと言うのにそれがより酷くなって、仕舞いにゃ普通にざけんなとか、はぁボケとか口から出てくるわけよ。

で、

我々は、恐らくこれまでも、これからも、我という個人の感覚しか知れず、彼我の認識が本当に共通の物かを確かめる術もないままなのだろう。
そんな状況では、真の客観というものは存在せず、多様な主観を自らの中に準並列的に存在させるのがやっとだろう。
相手の思考を、あくまで自らの中で擬似トレースすることしか出来ないのだ。

崩そう

上のような文章になっちゃうわけで。よーするに「どんなに頑張っても、君と僕は他人だし、人が何をどう感じて考えてるかなんて覗けるわけないよね」って話なのに、必要以上に長くなってもうダメ。