オタク擁護ってわけじゃないけど

前回『脱オタ』に関して苦言を呈したところ、「それって自分がオタクだからそう思うだけなんじゃん?」との声を頂いたので。

「好き」という感情

そもそも、何かを好きになるというのは、理屈が先にあって好きになるわけでも、ましてや誰かに言われたから湧く感情でもない。
(もっとも、その「好き」を理屈によって言語化出来ないと、ただ「俺はこれが好き」ってだけの他者と共有出来ない物になってしまうわけだが)
「あの人がAを好きだって言ってたから私もAが好き」というのは、突き詰めればAが好きなのではなく、「あの人」が好きなわけである。
それと同じように、「みんながこれはダサいって言ってるから、俺も好きじゃない」というのも、価値判断を他者に置いているという点で同じである。


別に「オタク」にカテゴライズされる趣味じゃなくてもいい。
例えば車だろうが、自転車だろうが、サーフィンだろうが、ハマり過ぎれば日常生活を円滑に営めない危険を孕んでいる。
そうして、例えば車にハマった人がいたとして、「車が趣味だなんてダッセェよな」という声を理由に、車の趣味を捨てたとして、その人は幸せなんだろうか?


よーするに、自分の中から湧き出てくる「好き」という感情と、他者からの評価や視線を天秤にかけて、後者を選んでいるというだけのことだ。


「好き」という感情に、言うなれば自分自身に背を背けてまで、何が得られるのだろう?
無趣味な人間は、奇異の目で見られることもない。特異点が存在しなければ、叩かれもせず誉められることもない「フツー」でいられる。


自分の「好き」を捨ててまで、その「フツー」を手に入れることに価値はあるのだろうか?

こんな一例

セブンスターリーフの末次トオルは、車(ロードスター)を愛するあまり、車の改造費やタイヤ代、ガソリン代にお金をつぎ込んでしまい、婚約者との結婚費用も貯まらず、愛想を尽かされる始末。
とまぁ頭文字Dの話なわけだが。
末次トオルは、婚約者に釘を刺されたことである決意をする。
手塩にかけて改造したロードスターのエンジンを、主人公藤原拓海とのバトルに勝っても負けても手放すという決意である。
その決意を語ったときに、後輩に「走りをやめるのか」ということを言われる。いうなれば、「車オタクをやめるのか」といった問いと同じである。
それに対し末次は、「別にチューンナップした車じゃなくても走る楽しさは味わえるはず」ということを答えるわけだが、これこそ理想の『脱オタ』像ではないだろうか。


すなわち、日常生活、現実と折り合いをつけ、その上で自分の趣味を楽しんでいくわけである。

折り合い

確かに、趣味という物は程度の差こそあれ、ハマってしまったら日常生活に支障をきたす物である。それがオタク系と言われる趣味だろうが、モテ系と呼ばれる趣味だろうが。
そしてそれと同時に、オタク系の趣味に対する世間の風当たりが強いのも事実である。
だが、だからといってその趣味を捨てる必要は、全くない。
要は折り合い、すなわち日常生活さえまともに営めるのであれば、何をしようが勝手なわけで、本当に好きな物があるというのは実はとんでもなく幸せなことだったりするわけである。


いい年こいて漫画ばっか読んでて、漫画オタクで恥ずかしいなぁ
ってのは
いい年こいて映画ばっか見て、映画オタクで恥ずかしいなぁ
と言ってるのと何も変わらないし、それで人様に迷惑をかけているのでなければ、何も恥じることはないのである。


あの人がダセェと思っている物を自分が好きだからといって、自分自身が恥じる必要は何もないのだから。
みんながダセェと思う物を好きだからといって、恥じる必要はないわけである。

もっとも

オタク趣味を続けていくのであれば、「この趣味が世間様からは疎まれている」という自覚は重々必要で、それを肝に命じて行動する必要はあるだろうけど。

まぁ簡単に言えば

明日サッカー見るなんてクソダセェってことになっても、多分地上波でやってる限り俺はサッカーを見るし、サッカー見るのクソダセェってことになったら見なくなる奴ってのは、別にサッカー見るのがそれほど好きだったわけじゃないんだろうなーってことである。


で、もっと言えば、価値基準を他者の中にしか求められない人間こそ、クソダセェなぁと思う次第でございます。