ゲームについてうだうだ

僕はゲームが好きだ*1
コンピューターゲームに限らず、将棋やチェスのようなボードゲームから、トランプのようなカードゲームまで、大体何でも好きである。
ただ、例として将棋やチェスを挙げたが、完全情報ゲームは余り好きではない*2
というわけで、自然と不完全情報ゲームを中心にプレイするわけだが、ここで勘違いされると困るのが、僕は不完備情報ゲームはもっと嫌いである。
ルールも把握せずにやるゲームは、最早ゲームとして成立していない。
ゲームとして成立しないただの遊びなら、最早そこにはルールは必要なく、ただ複数人で集まってお喋りしているのと同じである*3
で、ゲームというのは結局の所バランスで、僕はアゴンに寄りすぎたチェスのようなゲームも敬遠してしまうし、かといってアレアに寄りすぎた運ゲーでは面白くないし、ミミクリのみならばルールのないTRPGみたいな物で最早Gの文字は消えたTRPだし、やはりイリンクスのみでもゲームとしては成立しない。
これらが程よく混ざり合ったのが、良いゲームだというのに異論はないだろうが、人それぞれその「程よいバランス」が違うから、好きなゲームが変わるのだろう。
で、カイヨワのこの四分類が正しいのならば、それぞれの要素は単独でも遊びとして成り立つわけであり、それぞれの面白さがあるのだから、運ゲーには運ゲーの、演技ゲーには演技ゲーの面白さがあるわけである。
ただ、「ゲーム」に話を限らなければ、それでよいのだが、こと話を「ゲームについて」とすると、やはり重要なのはアゴンの度合いである。
カイヨワ自身も言っているが、決してアレアの要素が低俗というわけではなく、ゲームが成立する上において、アゴンの要素は決して無視出来ないからだ*4
というわけで、僕自身は、「ゲームの面白さ」とは主にアゴンとアレアのバランスよって決まる物であり、ミミクリ・イリンクスはゲームに味付けをする、それこカイヨワの言う原始的楽しみでしかないと思っている。
ミミクリ・イリンクスに重点を置く物は、「ゲームの一種」というよりも「ゲームではない遊びの一種」であり*5、ゲームバランスだのゲーム性だのということばは、とどのつまりアゴンとアレアのバランスのことだろう。


ゲームというのは、もちろん遊びの一種だから、人それぞれ好き嫌いがあって当然だろう。
けれど、やっぱりそこにはある程度の真剣さがなければ、面白くなくなると思うのである。
互いに勝敗を競い合っている以上、その前提が崩れたら、それは上で述べたようにゲームとして成立しなくなる*6
そうなると、やっぱり一緒にプレイする面子って大事だよなぁ。


で、まぁ、せっかくプレイするなら、本気でやってみてはどうでしょうという話である。
ゲームに限らず、映画も、テレビも、本気で見たりやったりしたら、きっとまた違った側面が見えるだろうから。

*1:これ以降、ある程度ゲーム理論を念頭に置いた上で「ゲーム」という言葉を使う

*2:究極的には、必勝パターンないし必分パターンが確定してしまうから。もちろん、その条件下で最適解を出せない・出そうと努力する状況を楽しむという、ビリヤードに近い楽しみ方は出来ると思うけれど

*3:もちろんそれはそれで好きだけど

*4:そもそものゲームの定義からし

*5:ゲームは遊びの一種だが、ゲームだけが遊びではない

*6:決してゲームに時間を割けというわけではなく、あくまでプレイする時の心構えとして