京都について。

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2009年、最初に会った友人は京都在住の人だった*1
彼は、京都大学から法科大学院に進んだ人で、そう遠くない未来に住職と弁護士という二足の草鞋を履くであろう人だ。
久しぶりに新宿で会って映画を鑑賞したあと、ふとしたことから方言についての話題になった。
彼は京都に住んでもう七年になるのだが、いまだに標準語で喋っているらしい。
いわく、京都弁で喋ると「気持ち悪い」と言われるそうだ。また、京都弁で喋っている友人達の輪に入った時など、友人達から若干の余所余所しさを感じるらしい。
これは京都に限らず、僕が茨城で体験したことでもあったので、地方ってそんな感じなのかなぁ、という話をした。
僕も彼も、東京生まれ東京育ちで、十代の後半までずっと東京に住んでいた。それ故、方言や田舎、実家といった感覚が希薄である。
僕らにとって「実家」とは東京のことであり、「田舎」とは祖父祖母の家(つまり両親の実家)であり、正月休みで田舎の実家に帰って〜といった一般的感覚を共有しがたい所がある。
地方出身の人にはわかって貰えないかもしれないが、(少なくとも僕は)「田舎の生まれ故郷」が存在しないことが残念だし、正月休みで地元に帰省とか、上京してきての衝撃とか、そういった物を味わえないことを悔しく思っている。
そして、東京から地方に越した経験から言うと、その地方にとって僕らは「外様」であり、どんなに現地の言葉を習得しようと努力してもネイティブスピーカーとの差は歴然と存在し*2、また極々薄く普段は意識することのない程まで近づけたとしても、やはり壁の存在を感じることがあるのである。これはきっと、地方出身者が方言を抑え、標準語で喋ろうと努力するのとは違うレベルの話だろう*3
きっと、地方から上京してきた人が、ふとした拍子に「ここは自分の生まれ故郷ではない」「ここでは自分は外様だ」と感じるように、僕らもまた同じような、あるいはそれ以上の物を感じるのである。


誤解を恐れず言ってしまえば、僕は地方出身の人を羨んでいる。
彼らは標準語の他に、生まれついてからの会話で身につけた、出身地独自の方言を持っている。それは他の地方の人間が、二年や三年努力した所で同じレベルで身につけられる物ではなく、内の人間と外の人間を明確に分ける基準となる。
彼らは東京の他に、生まれ育った故郷を持っている。それは僕ら東京出身者がどんなに望んでも手に入らない物だ。たとえば僕が漱石三四郎を読んでどんなにか三四郎に憧れるように、やはり東京出身の漱石も、地方出身者に憧れを抱き三四郎を書いたのではないかと勘繰りたくなる程だ。
地方から上京してきた学生を主人公にした小説など、三四郎以外にも枚挙に暇がないほどあるし、それらに憧れる僕からしてみれば、「東北の片田舎から上京」なんてシチュエーションは純粋に憧れる。


それでいて僕が気に食わないのは、地方出身者や地方在住者の多くが、「東京出身であること」は良いことであり「地方出身であること」は恥ずべきことと考えているフシがある点だ*4
もちろん、東京至上主義的な風潮があるのは認めるが、東京など結局の所、地方出身者の集まりで、東京発祥の流行などといっても結局はメディアに踊らされているに過ぎず、東京が誇れる点と言ったら人が多いという点と、江戸以降の文化的価値のある場所位だろう。
そして、それらの誇れる点も、地方から上京して東京に住むようになってしまえば、手に入ってしまう。江戸以来地方出身者の多い東京という街は、一年も住んでしまえば最早自分の街と言えるのである。
東京に憧れ、東京という街に出てきて一年もすれば、誰でも「東京の人」だ。
対して僕らは、一年住んでも、二年住んでも、七年住んでも「京都の人」にはなれない。


別れ際、京都に「帰る」ではなく「行く」と表現した彼が、ひどく印象的だった。

*1:晦日から年明け前まで一緒に居た連中は別にして

*2:ネイティブでなければわからないレベルではあるが

*3:東京に地方出身者が多いという点と、標準語はテレビを通して子供の頃から触れてきたのに対し、地方ではその地方の生まれの人の方が多く、その地方の方言と触れる機会の少ない僕らが入っていくという点で

*4:人の劣等感を突くのが大好きな僕は、往々にしてそういった地方出身者を馬鹿にする。だが実際の所、それは地方出身者になれない僕の妬みでしかない