現代文の授業が何の為にあるのか

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090813/1250130867
ここを読んでの回答というか、感想。


教科書を教えるんじゃない。教科書で教えるんだ。というのは、僕が受けた国語科授業の教授の台詞。
全くその通りだなぁ、と思う。多分、「教科書を教える授業」を受けた人は、「これ何の為にやってんの」って気分になったり、「国語科とは即ち皇民教育の一環でしかないのだ!」となるのだと思う。
事実、現在の多くの国語科(いい加減日本語科にするべき)の授業はその通りだ。
古い慣習に縛られたままの教育の現場、国語教師に問題があるわけだが。


で、本題。
現代文の授業等において、文学的文章を扱う理由は、決して「教材を読んで感動し、作品に書かれた思想に共感するため」ではない。
(21世紀において)国語教育は思想教育ではないのだ。
漱石にしろ鴎外にしろ、川端にしろ、読んで感動するかどうかは、テメーの都合なわけで、つまらないと思えばその人にとってはつまらないのである。


だが、リンク先でも言われてるように、確実に100年近く、あるいはそれ以上残った作品には、それなりの「良さ」がある。
要は、その「良さ」に気づけるようにするのが、文学的文章の教育の目的なのである。


漫画を読んだことのない人に、いきなり漫画を読ませても、読み方がわからないように、「その作品を面白いと思うかどうか」ではなく、「作品の読み方」を教えるのが、文学的文章を教材として扱う目的である。
どんなに優れた作品でも、「読み方」がわからなければ、その人にとっては駄作だ。
あるいは人によっては、「読み方」を学んだ上で読んでも、駄作かも知れない。それは各人の好みだから、一向に問題ない。きちんとその作品の「良さ」と「悪さ」を理解した上で、「自分には合わないな」と思えたのであれば、十分だ。


要するに、今後何らかの作品(文学に限らず、漫画・アニメ・ゲーム含む)に触れたときに、真の良さを理解出来ずに投げ捨てる、などという勿体ないことを起こさないために、「作品に触れる手法」を教えるのが、文学的文章の教育の目的であるべきなのである。


鍵ゲーやって、登場人物の心象を理解出来れば物凄い感動出来たのに、そこが理解出来ず感動出来なかったというのは、物凄い「損」なわけである。
そういった場面で、少しでも楽しめるように、何が書かれているのか、どう書かれているのかが理解出来るように、要するに「読解の手法」を教育するのが目的なのだ。
そして、世の中には「読める人」には想像出来ない位に「読めない人」が存在する。
そういう人たちが、「読めないまま」で生きていき機会損失するのが勿体ないから、好き嫌いは個人の自由だけど、とりあえず好き嫌いを語れるレベルまで「読める」ようにしないとねー、ってのが、現在の文学的文章の教育が目指すべき所なわけである。


といっても、前述した通り、これは理想であり、全ての学校でそのような教育がされているとは言い難い。むしろ未だに、文学的文章は思想教育としてしか使われていない面がある。


漱石読んで「ハッ、馬鹿じゃねぇの」といった感想を抱くのでも、全然構わないのだ。そこに書かれた内容がきちんと読めているなら。
好きか嫌いかは個人の嗜好なのだから。読み取れるようになるのが重要で、読み取った結果それをどう受け取るかは、本来問題では無い。


故に、現代文の授業とは、「読み取ることが出来ない人を、ある程度読み取れるように持って行く」為に必要なのである。
まぁ、本当は現代文の授業なんかより、適当に各々好きな小説授業中に読んでた方が、よっぽど読む力は上がると思うけど。