教養主義

文学研究だーなんてホザいてれば、当然「最低限この程度は知っているべき」ことというのが生まれる。
「研究するにはこの程度は知らないと、お話になりません」ということである。
この「知識量」の必要性の是非はともかくとして、簡単に言えば、四則計算も出来ない人間が、ミクロ経済について語れるわけがねーだろ、というのと同じ話である。
極稀に知識量が少ない人が、とんでもなく奇抜かつ斬新で、それでいて正しい意見を言うこともあるのだけれど、それって本当に「目つぶって窓から石投げたら、日本が崩壊しました」レベルの偶然でしかないわけである。
よって、「勉強する」という行為が必要になって、知識量を増やすことが必要になるわけである。


で、これって漫画やらゲームやらについて語るときも、似たようなことが言えるんじゃねーかな、と。
主観で「面白い・面白く無い」を語るだけなら、自分が読んだり遊んだりしてみて、面白いか面白く無いか感じた通りに言えばいいだけだから、誰でも出来る。
が、それって実は、もんのすごい意味のない行為だと思うわけですよ。
というのも、個人の主観ってヤツは、もうどこまで行っても絶対的にその「個人」の中にしか存在せず、他人の主観なんて物は、徹底的にあてにならないわけである。
もちろんその「個人の主観」が集合となることである程度の客観性を得て、確率論的に「みんなが面白いと言ってるなら、自分も面白いと思うかも」という可能性は上がるわけだけど。


で、突然amazonのレビューの話になるんだけど、あれって良くできてるよなぁ。実態は別にして、システムというか目指してる所が。
レビュアーが何を購入していて、何に高得点を与え、他の物はどういう風に評価しているかが見られると、ただの「面白かったです」というだけの感想でも、その後ろに様々な情報が乗っかるわけである。
って言うのも、僕は「○○を評価するなら、最低限○○の知識が無いとダメ」ってのを割と信じている方で、例えばゲームで言えば、2D格闘評価する時にスト2シリーズもやったことない人間の意見ってのは、当然精度が低くなるわけである。
というのも、スト2すら知らずに、突然、初代餓狼伝説でもやれば、そりゃ「スゲー!」と思うだろうし、「今までに無いゲームだ!」ってことで評価が高くなったりするわけで。


コンピューターRPGで言うなら、国産ならドラクエ・FF、洋ゲならWIZ・ウルティマ、もっと言えばM&MやBG、Diablo辺りまで押さえようとか、FPSで言うなら最低限QuakeUnreal・HLシリーズのどれか位はやってないと、FPSというジャンルが面白いかどうかすら語れないだろうし、RTS語るならAoEシリーズやWarcraftだとか、そういった「各ジャンルのファンなら知ってて当然。」的な物ってあるわけで。


常々言ってるように、「知らない」ということは恥ではないけど、「知らない」ということを自覚できない状態というのは、恥だなぁと思うわけなので、なんかこういった「定番」みたいなのって、もっと積極的に認知されるように、広められてもいいと思うわけです。
ゲームに限らず、漫画やアニメとかも含めて。


で、徐々に定番的なのが固定されて、「○○語るなら、まずこれ読んでおけ・やっておけ」ってなるって流れが、もうほぼ崩壊しちゃってるのが、今の「オタク」を取り巻く状況なんじゃないかと。
ライトオタクが増えるということは教養主義の崩壊に繋がるわけで。
文学の場合、「研究」という行為があったから、「定番」は生き残ったけど、はてさてサブカルチャーの場合どうですかね。
漫画研究だのアニメ研究だのが確立する前に、こういった「定番」的な物が崩壊しちゃって、最早研究なんて概念自体立ち上がらず、このまま消費的に進んでいくだけになるんでしょうか。