どうせ俺が何食ってたって興味ないだろ

なんかここ数日、アホみたいに飯を写真に撮って日記書いてた。
恥ずかしいくらいにアホだな。


大体冷静に考えて、他人がその日何食ったかなんか、知りたくもねぇ。少なくとも俺は興味ねぇ。


大体、カメラ好きだし携帯にカメラついてるのに全然使ってないから、積極的に使ってみようって趣旨だったはずなのに、撮ってる物がテメーで作ったメシってw
どんだけだよ。大して上手くもないくせに。レシピらしいレシピもないくせに。


いったいどういう客層狙って書いてるんだか自分でもわからんわ。


そもそも、ウェブ上でテメーの趣味でしかないものを書いてアップして〜ってのは、ネットリソースの無駄遣い以外の何物でもないし、完全な押しつけであり自慰行為なわけである。
とか散々自分で言ってるわけだが、自覚した上でやってるからタチが悪い。


というわけで、「押しつけ」の話。

価値観の多様性を認めるという矛盾

とかく相対主義な世の中なので、「人それぞれ」という言葉が毎日のように世間を飛び交っている。曰く特別なオンリーワンだとかなんだとか。
簡単に言えば、「あなたにはあなたの考えがあって、私には私の考えがある。それでいいじゃないか」ってなもんである。
実はこれ、一見すげーまともなことを言ってるように見えて、実はとんでもなく暴力的な言葉だったりする。
結論から言うと、「人それぞれですから」というのは、一切のコミュニケーションを絶つ言葉なのだ。


というのも、真に価値観の多様性を認めるなら、それら多様な価値観の中には「価値観は絶対的に優劣がある」という価値観も存在するわけである。
「君と僕の考えは違うけど、どちらも間違いじゃない。どちらも素晴らしい」というのは、あくまで両者が相対主義的な土壌の上に立っていないと成り立たない。
「考え方は人それぞれ」と言うならば、「考え方は人それぞれであるべきではない」という考え方すらも認めなければならないのだ。


よーするに、「人それぞれ」という考えが絶対であり、「人それぞれはダメ」「考え方には優劣がある」という考えは間違いだ、という前提の元での「人それぞれみんな正しい、元々特別なオンリーワン」なのである。
一見平和的解決を図っているような言葉に見えて、その実は「意見を対立させたい」「人と違う意見とぶつかってよりよい意見を得たい」とかの、至極まっとうな、ある意味では向上心にあふれた考えすら「ああそう、でも人それぞれだからね」で抹殺するのである。


とまぁここまでグダグダ述べたけど、相対主義自体が相対的であるなら、「人それぞれ」は正しくなんてないし、相対主義だけは絶対的に正しいのであれば、やはりその相対主義は矛盾を内包するのである。
「絶対ということは絶対にない」みたいなもんで。

真理の探究としての対立

で、この事なかれ主義というか、意見を対立させないのがベターとする風潮が、とにかく嫌いである。
フツーに生きてりゃ他人と違う意見持って当たり前だし、違う人生送ってんだから、どっちが正しいかなんて簡単には判断出来なくて当たり前だ。


で、そこで意見が対立して、話し合ったりなんだりして解決していくわけである。
まぁ簡単に言えば議論ってことになるんだろうが。


とにかくこの「議論」に関して、誤ったイメージが先行しすぎている気がしてならない。いや、大多数がそう思ってるってことは、むしろ俺が間違ってるのか。


たとえば事象aを解決する策Aと策B、どちらの解決方法がより良いかで対立し、議論となった場合、参加者の共通目的は「事象aをよりよく解決すること」である。
その結果、「話をしている暇があったら作業した方が早い」という結論になったのならば、それもまた一つの「議論の結論」である。
また、AとBで対立している人間たちにとって大切なのは、「自分の意見を通して議論に勝つこと」ではなく「より良い解決策を得ること」である。
この辺をどうも勘違いしている人が多いというか、まぁ議論っつーと利権にまみれた政治的なアレしか知らないとそりゃ勘違いもするわな、という。


もちろん政治家が「おいおいお前それテメーの利権のために無理通したいだけだろ」って感じでやるような議論もあるが、議論の全てがそれではない。
なんつーか、アカデミックな議論というか、より技術面に特化した議論というか。まぁ本来議論ってそういうもんだと思うけど。


「自分はこれこれこういう理由で、Aが良いと思う」「自分はこれこれこういう理由でBが良いと思う」と、各々の考えと、なぜそれが良いのかを説明することが出来れば、実は議論ってのはほぼ9割方終了している。
あとは客観的に、AとBのどちらが良いのかを判断して、より良いと思われる方を採択すれば良いだけの話である(といってもこの残り1割の部分が一番難しいわけだが)。


で、ここで「みんな違ってみんな良い」だの「人それぞれだから」で終わらせるのは、もう議論の前提からブチ壊す
言葉の暴力行為なわけである。


もちろん、議論の目的が「個々人のチャチなプライドを守る」ということであれば、結論を出さず「みんな素晴らしい意見ですね」で終わるのは、正しい。
が、「より良い結論を出すため」という目的において、「人それぞれだからどの意見も良いと思います」というのは、ハッキリ言って場にとってマイナスにしかならない意見としか言いようがない。


たとえば、遭難している時に、A.無理に山越えして里まで降りるか B.救助を待って動かずにいるか で揉めた際に、「人それぞれだから」が何の役に立つだろうか。
ここで求められているのは生存率を上げる選択肢であり、そのためには救助が来る可能性や、自分たちで山越えをして里まで無事たどり着ける可能性を論議し、最終的にどちらの方が生存率が高いかを検討することである。


もちろん日常における意見の対立は、ここまで切迫してはいないだろうが、たとえば夫婦間での洗濯の仕方一つをとっても、色柄物を先に洗った方が良いのか、無地の物を先に洗った方が良いのかというのは、議論の題材になりうる。
より効率的に洗い上げるという目的が一致しているならば、後はそれぞれ洗う順番を変えた際のデータを示すなり、理論を示すなりして、納得するのがベストなわけである。


というわけで、「議論の後に自らの意見が変わる」ということが一つの成長なのである。
それまで知らなかった手法や価値観、意見を聞き、議論することで相手の論拠を知り、納得し、自らの物とする。
これは一人では出来ないことであり、いわば意見の対立とは自らが成長する機会でもある。


自分を議論で打ち負かし説き伏せてくれる人ほど、実は自分にとっては有益な存在であり、逆に自分が言い負かすだけの相手はプライドを保つには良いかもしれないが、話しても自分の成長の見込めない相手ということになる。


真理の探究としての議論においては、勝ち負けなどというのは無意味で、重要なのはより真理に近づけたか否かなのである。

でもこれも押しつけ

でも、こんなウダウダ長ったらしいことを直接誰かに強要したら、それはそれで押しつけなわけである。
あらゆる意見ってのは大なり小なり押しつけである。対立しない意見など存在しないし、対立を避ける意見は対立を望む相手に対しての押しつけとなる。


ただ、対立を避ける意見は最初から相手の意見が何であれ「対立しません」という絶対的な物であるのに対し、対立を望む意見は「対立を避けることが有意義である」という意見が真っ当なケースに限り対立を避けることに合意するという点で、後者の方がコミュニケーション的には実はマシなのではないか、と思う。


繰り返すが、ハナから「人それぞれですから」と言うのは、実は相手がどんな意見だろうと関係ない、一切のコミュニケーションを絶った意見なのである。

しかしこんな長々と……

書くということは自分の意見の再確認になるので、結構大事だなぁとは思うのだが、なにもウェブ上で公開する必要はないわけで。
しかも、一切推敲せずに深夜特有の無駄な勢いで書きっぱなし投げっぱなし。
まさにネットリソースの無駄遣い。


「まぁ人それぞれだし、いいじゃん」