気にくわないこと

愚痴というより最早攻撃のレベル。


綺麗事が嫌い。正確には、綺麗事自体は好きなんだけど、綺麗事だけで誤魔化す姿勢が嫌い。無知から来る綺麗事も嫌い。
自分が無駄に使った100円で、後進国の子どもが20人救えたかも知れないということは、常に自覚していたい。
そして、自覚した上で、今日も100円ショップで無駄にアイスを買いたい。
それについて言い訳するつもりは全くない。


みんなそうして生きているからといって、自分もそうして良いと思いたくない。
自分より酷いことをやっている奴を例に挙げて、自分には罪は無いと思いたくない。
俺は100円程度無駄に使っただけだけど、俺の前に並んでた奴は酒だのなんだので2000円じゃねーか、俺は20人の命を「救わなかった」のだとしたら、俺の前の奴は400人だぞ。
なんてことを思ってたくない。


とにかく、人が、国が、社会が、嫌いだ。
不平等を当たり前のように受け入れて、それから目を背け、臭い物に蓋をするかのごとく回り続ける世界が。
何が格差社会だ。アホか。世界規模の格差に比べりゃ微々たるもんだ。
この世界規模の格差をなくせるなら、おそらく世界の上位数パーセントにいる俺ですら、喜んで富の再分配に協力する。
それに同調しない連中が嫌いだ。
服も、食料も、家も、娯楽も、最低限生きていけるだけあれば十分だろう。


こんなことを言うとまず自分からやれと言うアホが嫌いだ。
俺は自分だけが犠牲になるなんて、まっぴらごめんだ。
君は俺を最低のクズだと思うだろう。
ああ、その通り。俺は最低のクズだ。
そして俺が、「行動しない故にクズ」なのだとしたら、これを読んでいる君もまた、最低のクズだ。
もし世界中の富める者が同じ気持ちになれば、あっとういう間に格差なんて無くなるんだから。
そして日本語を読めるという時点で、君はほぼ確実に世界の中では「富める層」の一人だ。


ようこそクソッタレで最低な君。
明日もクズがたむろする世界で、死に続けてる連中を肴に、食い散らかしながら、酒でも飲もうか。

松の内も明けたのでそろそろ日記でも書いておくか

2010年の抱負

会社では「昔はともかく、今は8日で正月明けですよw 8日過ぎたら寒中見舞いですよw」と言っておきながら、自分は15日過ぎてようやくこんなくだらない日記を書いている。


2010年。平成22年。


ただの数字でしかないわけで、本来それ自体には何の意味もなく、意味を見出すのはいつだってそれを受け取る僕らなわけだが、こんな人に嫌がられそうな話を抜きにして、2010年というのは感慨深い。
2000年、あるいは2001年を区切りの年と感じた人は、きっと多かっただろう。
2010年というのも、十分に「凄いなぁ」思うわけだが、それを周囲の人に話したところ、3勝9敗で、同意が得られたのは3人だけだった。
こんな物凄く些細なことだけれど、この違いというのは僕の中では非常に大きくて、「2010年」と聞いて「凄さ」みたいな物を想像出来ない、あるいは想像しない人というのは、僕から見た精神的距離は、地球の裏側に住む人より遠いと言ってしまっても良い位かも知れない。

SFの話

たとえばSFに少しでも興味・関心のある人なら、2010年と聞けばすぐに特定の作品を思い浮かべるだろう。
冗長になるのを承知で書けば、2000年以降を舞台にした作品は、20XX年となっていることが多い。世紀末を舞台にした作品の場合、199Xだったりで、1990年代であるという所まで特定されているのが、2000年を越えると201X年といった形ではなく、20XX年といった形の書かれ方が非常に多くなるのだ。もちろんこれは単純に、語呂の問題だったりするのだろうが。
閑話休題。2010年というのは、宇宙の旅の時代なわけである。
まさに僕の生まれた年に発表された小説なのだが(映画化はそれより後である)、2010年を迎えた今日、人類は木星どころか、未だ火星への有人探査すら成し得ていない。
宇宙開発だのに否定的な意見、たとえば「大昔、火星に水があったかも知れない。で、それが何? そんなことどうでもいい。宇宙開発に金使う位なら、先に地球の生活に金を使ってくれ」というような意見はもっともだし、そういう考えがあることも理解出来る。
だが、僕自身の考えは違う。
火星に水がかつてあったかも知れない。なかったかも知れない。だから何だというのだ。火星に水があったかどうかなんて、そんなことは全く重要じゃない。問題は、そこに惑星があるという、ただそれだけのことだ。ただそれだけで、僕らは、いや、少なくとも僕は、多くの大罪に目を瞑ってでも、宇宙に進出することに諸手を挙げて賛同する。
火星に、木星に、土星に、宇宙に何があるのか、どうなっているのか。そういったことの方が、僕にとっては戦争よりも遙かに興味があることで、経済よりも遙かに意味のあることだ。
天体観測が趣味なわけでもないし、天文部に入っていたわけでも、天文学をやりたいと思ったことがあるわけでもないけれど、そこに確実に存在する膨大な未知は、ただそれが存在するというだけで圧倒的に魅力的で、神秘的で、ただそれだけで酔うに足りる物だ。
別に宇宙その物や星が好きなのではなく、あの漆黒の空に、何も成果が得られないかも知れないと自覚しつつも、巨大な鉄の固まりを打ち上げ続ける行為、それ自体にある種の羨望と哀愁を感じているのかも知れない。


長くなったけれども、要するに、SFや映画に興味があれば、2010年というだけでももちろんだが、さらに、当時SFとして語られた近未来と現在との乖離した姿を見て、感慨を得るのではないだろうか。


あ、あと多分見てない相手への私信ですが、借りて読んだ水惑星年代記、物凄く面白かったです。鶴田謙二を好きな人が勧めてくれたので、ずっと気になっていたけど、ようやく読めた。
惑星だのの話をしてて、急に思い出したのでお礼を書いておく。

区切りとしての話

歴史に興味がなかったり、文化に興味がなかったりで、過去を振り返ったりしない人にとっては、全く無関心なことなのかも知れないけれど、2010年というのは「ゼロ年代の終わり」「10年代の始まり」なわけである。
必然的に、5年後、10年後と、「80年代文化と90年代文化の対比」「80年代の出来事」と同じような感覚で、「ゼロ年代と10年代の対比」という風に語られるわけである。
一つの時代が終わり、新しい時代に入ったわけだ。
この見方は、当然西暦基準だから西洋的で、どちらかといえば日本では元号を元に、大正文化、明治文化のように語ってきたと思うのだけれど、いつから主流が入れ替わったのだろう。まぁ、近現代を語る場合、その位の短いスパンでなければ難しいし(それでも場合によっては長すぎるが)、何よりわかりやすいとか色々あるのだろうけど。


で、何も元号が変わった時と同等の区切りとまでは言わないが、2010年というのは、確実に「10年に一度しか訪れない区切り」の一つではあるわけだ。
ここに何も感じない人というのは、最早同じ国で同じ言葉を使って育った人間とは思えないほどの隔たりを、僕は感じるわけである。


余談だが、上記の理由とは別に、2025年に何も感じない人とも、感性は合わないと思う。
1936年以来じゃないか、といえばわかってくれる人はすぐわかる。わからない人とでは、どんなにスイングバイを繰り返しても、互いの心が加速することは無いのだろうな、とさえ思うのだ。

断絶

で、2010年は、まず「断絶」を目標に生きていこうかな、と思う。
僕が時々読んでいるブログのタイトルを借りるなら「世界中の1%の人々へ」だ(元のブログの方は断絶的な意味ではない)。


今まで僕は、来る者は拒まず、去る者は悲しむ素振りを見せつつもあんまり追わないようにする、みたいなスタンスで生きてきたと思う。
決して友人の数が多い方では無いと思うが、誘われれば顔を出すし、極希にはこちらから誘うこともある、みたいな形の人間関係ばかりだった。
思想・信条は違っても、その違いが面白く、そういう相手と話をすれば化学変化のように自分が変わることもあると、ずっと信じていた。
だが最近、そこに疑問を抱くようになった。
今までなら、感性が合わなかったり、自分と違う考えの人間と会話することは、むしろ楽しみですらあった。
それを刺激だと思っていたし、また「一人一人違うのだから合わないのが当たり前」で、最初から「合う」などという幻想は捨て、上辺で合わせるのでなく、合わない部分についてはとことん話すのが、僕のスタイルだった。
だが今では、感性がまるで違う相手に僕の言葉が届かないことがあるように(僕は話がくどく、且つ長いので、そういうことは往々にしてある)、ひょっとしたら僕が「理解した」と思った相手の言葉は、僕自身に届いていなかったのでは無いかと思うようになっている。
僕自身は理解したつもりでも、実は相手の言語感覚と僕の言語感覚には大きな開きがあって、相互確認作業を行ったとしても、それでも実は全く理解出来ていないということがあるのではないか、と。
多様性を認めることが大事だと思っているのは今でも変わらないが、詰まるところ「多様性を認める」ということは「多様性を認めない」という考えをも「多様性の一つ」として内包し認めなければならないのだ。「多様性を認めない」というスタイルの人間を否定するのは、「多様性を認めない」という一つの多様性を切り捨てることであり、すなわち「多様性を認める」ことにならないわけである。
となると、真に「多様性を認める」なんてのは、不可能だ。
で、今までは「たとえ不可能でも、極力近づこう」という形だったのを、「もう無理ならやめちゃおうぜ」にしてしまおうかな、と。


と、長々語っているが、要するに、今までは「たとえ不可能でも、極力近づこう」とすることが楽しかったわけで、で最近それが苦痛を伴うことが多くなってきたから、「やめちゃおうぜ」というだけの話である。
苦痛を伴っても、手放すことを恐れてしがみついていた物から、手を離してみようぜ、と。
恐らく手が離せるタイミングとして今年はラストチャンスだし、手を離して簡単に失われてしまうようなものなら、いつだって代替が効くような物のわけで。


切り捨てちゃおうぜ、世界を。
まぁ、切り捨てるということは、同時に僕が切り捨てられるということでもあるのだけれど。


というわけで、今年は昨年までよりもより引かない媚びない恐れないをモットーに一年過ごそうと思います。

風邪とニジマス(グロ注意)

28日夜から鼻水が止まらなくて、「ああ、これ風邪だな」って感じだったんだが、案の定29日起きると完全に風邪の時の、あの感じ。
僕は(食生活等のせいもあるだろうが)生まれつき喉や鼻が弱いらしく、子どもの頃はちょくちょく風邪や扁桃腺炎で高熱を出して学校を休んでいた。今でも、季節の変わり目や冬などは、流行に乗り遅れず確実に風邪をひいている。


で、29日、釣りに行って忘年会に行って〜という予定だったのだが、全部キャンセルして家でひたすら寝ていた。
夜、一緒に釣りに行く予定だった人から連絡が有り、爆釣だったので魚を持ってきてくれるとのこと。ちなみに僕自身は釣りの経験はほとんど無い。
夜8時頃、大量のニジマスを持ってきてくれたのだが、一人暮らしな上に、正月帰省することを考えたら、三尾くらいが食べられる限界だろうということで、三尾貰った。
結局、体調が優れないのでそのまま寝ていたのだが、内臓だけは先に取っておいた方が良いだろうと思って、朝5時頃起き出して、捌いた。
以下写真。捌いてる写真もあるので、そういうの駄目な人は見ない方が良いと思う。



結構デカいのを三尾頂きました。
20cmくらい?
こいつを捌いていきます。



約10分後、こんな状態に。
内側と外側に塩を塗りたくって、冷蔵庫に入れて終了。
捌き方は、ググれば詳しく載ってるサイトがあるのでそっちで。




捌いてる途中、力加減を誤ると、内臓が飛び出てこうなります。




午後四時過ぎ、今日も寝込んでたんだけど、腹が減ってきたのでホイル焼きにする。
冷蔵庫から出して、水で塩を洗い流して、キッチンペーパーで水気取って、三枚におろしてバターと一緒にアルミホイルに包んで、グリルで焼いただけ。
写真は美味しそうじゃないけど、美味しかったです。

年末年始の予定

極一部から、「お前の年末年始の予定はどうなってるんじゃい!」とお叱りを受けたので、予定晒し。
28日まで出勤。
29日は釣り&忘年会。
30日〜4日までは未定。
5日から出勤。


なので30〜4の間のどこかで、気が向いた時に帰省予定。
多分鈍行で、2泊3日程度か。暇にならなければもっと長くいるかも。
帰省中やれたらいいなぁってことは、スーツ新調と、論文の下地用のエクセルファイル作成と、勉強と、実家に録画されているであろうテレビ番組の消化。
でも積んでるFPSも消化したいし、それは実家じゃ無理なので、これ幸いとばかりに帰省すらせず引き籠もってる可能性も有。
steamでS.T.A.R.K.E.R.が2ドル未満だったので買ったけどDLすらしていない状況。


全然予定ですらないな。
あと今年も年賀状は出しません。

クリスマスの少し前の日曜日のこと

 十二月の晴れた日曜日、僕はいつものように、近所のスーパーに買い物に出かけた。
 クリスマスを前にし、駅前にはツリーが用意され、商店街は電飾で彩られ、街はどことなく活気づいた雰囲気になっていた。
 行き交う人々の顔も、幸せそうだ。日曜の夕方はいつもそうだけれど、十二月の顔は特別に見えるのは、気のせいだろうか。
 別にクリスマスに対し、何の感慨もない僕だけれど、イベントを前にした街の、この雰囲気は嫌いではない。
 そういえば、クリスマスやお正月、誕生日などを気にしなくなったのは、いつからだろう。子どもの頃は、もっとわくわくして、何か特別なことが起こるような、そんな気さえしていたのに。
 そんなことを考えながら、クリスマスソングが流れるスーパーの中で、いつもと同じような物をカゴに入れ、いつもと同じようにレジに並び、いつもと同じようにポイントカードを差し出し、会計を済ませる。
 もう幾度となく繰り返してきた作業だ。違うことといえば、シュークリームやエクレアなどのお菓子を買って、帰り道に食べることがあるか、ないか程度の、些細な差。そして今日は、アイスクリームを買った日だった。
 帰り道にある公園に寄って、ベンチに座り、スーパーの袋からアイスクリームを取り出し、食べる。もう真冬といって差し支えない気候で、日が沈んだ後の公園は、痛いくらいに寒かった。
 寒い中で食べるアイスは、夏に食べるのとはまた違った趣がある。夏に食べるそれとは違って、アイスクリーム自体を深く味わえるような、そんな錯覚。
 ちょうど半分ほど、アイスクリームを食べ終えた頃だったと思う。そこで僕は初めて、隣のベンチに人が座っていることに気がついた。
 いつからそこにいたのだろうか。少女というほど若くなく、大人というにはまだ早い――そんな女の子が、一人で座っていた。
 ダークグレーのダッフルコートを着て、口元まで覆うようにマフラーをし、両手をコートのポケットに入れ、所在なげに公園の中を見つめたまま、微動だにしない。
 きっと僕が公園に入ってきた時から、ずっとこうしていたのだろう。放っておけば、明日の朝まで――いや、ひょっとしたら永遠に――このまま動かないのではないか、そんな風にさえ思えるほど、その女の子は風景に溶け込んでいた。
 何をしているのだろうと気にはなったが、その時の僕は、何よりこの寒さに参っていたし、不審がられるのも嫌だったので、そのまま帰宅した。



 夜、スーパーで買ってきた材料を使い、夕飯を作り、食べ、風呂に入る。これももう、数え切れないくらいに繰り返した作業。
 時計を見ると、まだ寝るには早い時間だったので、煙草を吸うついでに散歩に出かけることにした。
 寝る前に散歩をすることもあれば、しないこともある。スーパーからの帰り道、アイスクリームを食べることもあれば、食べないこともある。僕の生活の変化なんて、その程度でしかないのかも知れない。
 この辺で、灰皿の置いてある場所といえば、夕方、スーパーの帰り道に寄った公園だ。
 外は相変わらずの寒さで、吐く息は白く、すぐに手がかじかんだ。寒いのは得意ではなかったけれど、寒い中散歩をするのは、嫌いではなかった。少なくとも、夏の蒸し暑い夜に散歩をするよりは、ずっと。
 公園に着き、上着のポケットから煙草の箱を出す時、「ひょっとして、さっきの女の子は、まだあのベンチに座っているのではないか」と思い、そちらを見ると、夕方見た時と寸分違わぬ格好で、その子は座っていた。ひょっとしたら僕は、彼女がまだいやしないかと期待して、散歩に出たのかも知れない。
 公園の中で灰皿があるのは、彼女の座っているベンチの横だけだ。自然、僕は彼女の隣のベンチに腰掛け、煙草を一本取り出す。
 煙たいかも知れないな、と思い、少し気が咎めたので「煙草を吸っても良いですか」と声をかけた。
 彼女は、まるでその時、初めて僕に気がついたかのように、首から上だけを動かし、僕を一瞥した。そして再び、元のように――夕方もそうしていたように――公園の中へ視線を戻した。それを了承の合図と受け取り、煙草に火を付け、煙を吸い込む。
 彼女はずっと、ここにいたのだろうか。気にかかり、横目で見る。微動だにしないその子は、まるで朝からそこにいたようでもあるし、もう何日もそこにいたかのようでもあった。それは、長年かけて成長した木のように周囲に溶け込んでいて、最早景色の一部と呼べるほどだった。
「大丈夫ですか」
 僕はたずねた。
 大丈夫――とは、いったい何がだろう? 我ながら間抜けな質問だ。だが、彼女の持つ雰囲気が、浮き世離れしたような空気が、何かとても儚い物のような、大切にしなければいけない物のような気がして、僕は声を掛けずにはいられなかった。
 彼女は先ほどと同じように僕を見ると、
「何が?」
 と返してきた。だが、そこには不思議と、見ず知らずの男に声を掛けられた、ということに対する、警戒心のような物は感じられなかった。
「いや、夕方からずっとそこにいるみたいだから、寒くないかと思って」
「寒いよ」
 彼女は即答する。そして再び、視線を公園の中へと戻した。
「寒いのは苦手だけれど、寒い時に公園にいるのは嫌いじゃないんだ。おじさんは?」
 視線は変わらず、公園の中に向けたまま、今度は彼女が僕にたずねてきた。
 ――おじさん、か。まだ二十代なんだけどな、などと思ったが、おそらく彼女の年齢から見れば、僕は既に「おじさん」なのだろうと諦める。
「寒いのは、僕も苦手だね。でも、寒い中、煙草を吸うために散歩するのは、嫌いじゃない」
 その時、初めて彼女の表情が動き――口元までマフラーをしていたからわからなかったけれど、きっと微かに笑ったのだろう――ちらりとこちらを見て「じゃぁ、私と一緒だね」と言った。
「おじさんは煙草を吸うために、わざわざ公園まで、散歩しに来たんだ」
「別に煙草を吸うためってわけじゃないけど、まぁ、煙草を吸うついでに、かな」
 今思えば、煙草を吸おうと思ったのも、この公園に来たのも、彼女の持つ、引力のような物に惹きつけられてのことだったのかも知れない。
「君は? 夕方からずっといるみたいだけれど」
 気になっていたことを、彼女にたずねる。誰かと待ち合わせだろうか。それにしては長すぎる。あるいは家出か。それともただ単に、本当に公園が好きなだけなのか。だが、彼女の返事は、僕のどの予想とも違っていた。
「私はね、『すり減っていること』を感じているの」
「すり減っている?」
 思わず聞き返す。
「そう。すり減っていくのを、ここでじっと座って、感じているんだ」
「えーっと、すり減っていくって、何が?」
 僕には、彼女が言っていることの意味がわからなかった。彼女がずっと見ている辺りを、僕も見てみるが、そこにはブランコや砂場など、どこの公園にでもあるような、変わり映えのしない物が置かれているだけだった。
「すり減っていくのは、私自身」
 僕が彼女の視線を追って、「すり減っていく物」を探そうとしたのが伝わったのだろう。彼女が言った。
 それは精神的な話だろうか。若い、多感な時期にありがちな、感傷か。
「おじさんは感じない? 自分が毎日すり減っていくって。こうしている間にも、すり減っているって。私はそれを、ただここで、じっと感じているの」
「それは、心とか、気持ちとか、そういう精神的な話だよね?」
 すり減っていく――。感受性とか、感性とか、若さとか、命とか。それは確かに、日々すり減っていく物かも知れない。
「そう。精神的な話。だけど、それは私自身でもあるの。すり減ったそれは、もう二度と戻らないし、すり減った私は、すり減る前の私とはもう違う」
 彼女の言っていることも、わかる気がした。歳を重ねるごとに得る物もあるけれど、失う物もある。その喪失を、すり減ると表現しているのだろう。
「でも、それって誰もがそうなんじゃないかな。誰だって、生きていく以上、何かを失ってる。何も失っていないという人だって、確実に『時間』を失っているんだから」
 そうやって、人は変わっていく。多分誰だって。
「ええ、そうなんだと思う。そして、それは誰にも止められないんだと思う。熱力学第二法則のように」
 なんだろう。どこかで聞いた台詞のような気がする
「私はこんな世の全てを、別に憎んでいるわけじゃないけど」
 そういって彼女は、大げさに肩をすくめてみせた。
 しかし僕は、見ず知らずの女の子と、なんて会話をしているんだろう。
「だからただ、すり減っていくのを感じていた?」
「そう。せめて、『すり減っていること』を、忘れてしまわないように。そうしていないと、『すり減っていること』すら忘れちゃいそうだから」
 少しだけ、彼女の持つ雰囲気の秘密が、わかった気がした。きっとそれは、達観、あるいは諦観と呼ばれる物に近い感じなのだろう。それが彼女を希薄にし、存在感を失わせ、風景に溶け込ませている要因の一つなんだと思った。
「ねぇ」
 僕がそんなことを考えていると、ふいに彼女が立ち上がり、僕に向き直って言った。
「昔、『自分が男じゃなかったらな』って思ったこと、ない? 私の場合は、『女じゃなかったらな』だけど。
 あるいは、周りの大人を見て『自分も歳を取ったら、こうなるのかな』って思ったことは?」
「どっちもあるよ」
「そう。やっぱり、一緒だね」
 今度ははっきりと、彼女が笑ったのがわかった。だがそれは、苦笑いのような、自分自身を冷笑するかのような、悲しい笑顔だった。
「私はずっと怖かったんだ。ううん。今でも怖いんだと思う。すり減ることは仕方のないことなんだって、どうしようもないことなんだって、そう思うけど、いつか本当にすり減って、すり減って、『すり減っていること』にすら、気づけなくなってしまうのが」
「わかる気がするよ」
 本当に自然に、言葉が出た。
 確かに、わかる気がする。いや、自分もかつては、そうだったのではないだろうか。日々の出来事に、季節の移ろいに、なんてことない些細なことに、心が動かされなくなるよう日が来ることを、ひどく怯えていたのではなかったか。
 でも、僕は今やクリスマスを前にしても、大して気持ちは揺るがず、毎日同じことを繰り返し、同じように生きている。心はいつも平穏そのもので、凪いでいると言えば聞こえは良いが、それはつまり、彼女の言う「すり減った」結果と言えるのではないか。
「だから思ったの。ひょっとして、私が男に生まれていたら違うんじゃないか、あるいはもっと大人になれば、この、すり減っていく感じと上手く付き合って行けるんじゃないか、って」
 なるほど、彼女にしてみれば、自分の感覚は女性故の物かも知れず、また、大人になれば上手に処理出来る類の物に感じたのだろう。
 でも残念ながら、それはきっと、どちらも間違っている。
 彼女が自分で言ったように、それは『誰だってそう』だし、大人がそのことに悩んでいないように見えるのは、大抵の場合、『すり減っていること』すら忘れてしまったか、毎日を生きることに精一杯で、そんなことを考えている余裕すらないのか、そのどちらかなのだから。
「それは多分――」
 違うと思う。そう言おうとした瞬間、彼女に遮られた。
「わかってる。ううん、今日、わかった。私が男に生まれていたとしても、この気持ちからは逃れられないんだって。そして、私が大人になったとしても『すり減っていること』を忘れてしまうことは出来ても、決して『すり減っていること』それ自体と、上手に付き合っていけるわけじゃないんだって」
 それは僕が考えていたことと、全く同じだった。
 でも、仕方がないじゃないか。
 誰だって、すり減りながら生きていく。それに耐えられる人もいれば、耐えられない人もいる。
 そして、すり減ることは、誰にも止められない。
 だとしたら、それに耐えられない人は、忘れるしかないではないか。自分がすり減っているという事実を。幼い頃の精神は徐々に損なわれ、日々、自分の心が摩耗しているという事実を。知らない間に、大人になってしまっているという事実を。
 それを『成長』と呼ぶ人もいるだろう。ひょっとしたら、これを歓迎している人すらいるのかも知れない。それも正しいのだと、『すり減っていること』のもう一つの側面なのだと、思う。変化はいつだって、進化と退化の表裏一体だ。
 でもやっぱり、どうしても、どうやっても、それに耐えられない人は、忘れるしか、いや、忘れたふりをするしかない。それについて考えないようにし、忘れたふりをして、そうしている内に、いつしか本当に忘れてしまい、やがて素知らぬ顔で『大人』の仲間入りをするのだ。そして、今、はっきりとわかるけれど、多分僕もそんな『大人』の一人になってしまっていたのだ。いつからか、自分でもわからない内に。
 なのに、彼女は――
「だから私は、『すり減っていること』を、この先何があっても、絶対に忘れないように、感じていたの」
 はっきりと、そう言った。
「それは――それはきっと、とても辛いことだと思う」
 僕には、そう答えるのが精一杯だった。果たして僕に、ここまでの覚悟があっただろうか。大人になった自分を見て、絶望して、それでも『自分は絶対に忘れないように』と言えるだけの気持ちが、あっただろうか。
 きっとあったのだろう。少なくとも、目の前の彼女の中には、ある。景色に溶け込むほど存在感のなかった彼女だが、『絶対に忘れない』と宣言した時のその目は、何よりも――今の僕なんかよりもずっと――力強く感じられた。そして、彼女の中にあるのなら、きっと僕の中にも、かつてはあったのだ。
 いつ、どこでなくしたのか。それすら思い出せなくとも、それは確実に、かつての僕自身の中にあったはずの物なのだ。



 失った物は取り戻せない。そう、エントロピーは増大する。
「もう一本煙草を吸っても良いかな?」僕はたずねた。
「ええ」彼女は答えた。
 それでもせめて、この煙草を吸い終わるまでの間、僕も感じようと思う。すり減っていることを。

お金がないなら自炊すればいいじゃない

twitterでもつぶやいたけど、キャベツが一玉98円だったので、買ってきた。
で、どうするかというと、丸ごと圧力鍋で煮る。


芯をくり抜いて、水で洗ったあと軽く水を切って、芯のあった部分にハムと鳥胸肉を入れて圧力鍋へ。
コンソメを切らしていたので、味覇で代用。中華っぽい味になると予想。
鳥胸肉なのは、純粋にお金がないから。



あとは煮るだけ。圧力鍋だと、沸騰し出してから10分くらい?
現在煮込み中。



完成。
やっぱり胸肉だとせつないな……。



全然関係ないけど、名前が……。
味は特にこだわり感じられませんでした。

携帯から

現在下北沢。
小田急のホームクソ混んでる。
以前は満員電車ここまで嫌いじゃなかったと思うんだけどなぁ。
耐性みたいな物が薄れたのか。

久しぶりに美味しい肉を食べた。

もうすぐ2009年が終るなぁと思った。
子どもの頃、二十歳すぎた後の自分なんて想像出来なかったように、2010年なんてSFの中だけの数字だった。

あ、みんな急行待ちで各停は意外に空いてた。

ゆっくり家に帰る。ただそれだけなのに、無性に楽しい気持になることがあるのはなんでだろう。
この気持を世界中の人と共有出来たら、それだけで幸せだと思う。
なんてことを書いて、ガラじゃないなぁと苦笑。
多少酔ってるのを言い訳に投稿。

小田急、行きに続いて帰りも遅延。只今停車中。
車内で乗客対応中とのこと。
早く帰りたいのはわかるけど、イライラしても電車は動かないし、のんびり待とうぜ後ろの人。

しかし、駅前とか繁華街とか満員電車乗るたび思うけど、人多いなぁ。
名前も知らない人が沢山。
ああ、きっとこれが気持悪いんだなぁ。
鶏で一杯の養鶏場を見ている時の気持ち。
って言っても伝わらないか。
でも鶏には罪は無いし、そこに一緒にいる僕自身も同じ鶏だけど。
丁度文字数制限