神様なんて信じていない僕らのために

今年に入ってから、立て続けに知り合いが死んだ。
そんなのは別に特別なことじゃないし、きっとこれを書いてる今だって、人はどんどん死んでいるんだろう。
ペシミストを気取っていた僕は、子供の頃から「僕はいつか死ぬんだ」と思っていたし、「人はいつか死ぬんだ」と知っていた。
でも「いつか」は常に「いつか」であって、そこには「明日8時起きなのに午前6時に日記を更新している時の、リアルな切迫感」はなかった。
これまで僕の身の回りで死んでいった人たちは皆、「ああ、そうなんだ」と訃報を聞かされて納得出来るくらいの年齢だったり、そういう人柄だったりした。
だけど、今年のそれは違った。
その人達の「いつか」は、僕にとっては突然「今」になり、僕の抱いていた「いつか」は急に現実味を帯びた物に変わった。
僕が失いたくないもの。それらも、「いつか」失われる。けれど、「いつか」を「いつか」だと思っていたから、どうにかやってこれた。
今、僕の中で、急速に「いつか」が現実感を持ちつつある。
海の向こうで戦争が始まっても、此岸の僕にとって現実感はないから、どうにかやっていける。けれど、明日突然僕の街でも戦争が始まったら、僕はどうすれば良いのだろう。
考えてもどうしようもないことだし、どんなに考えても「いつか」はいつか必ずやってくるのだけれど、一度捉えられてしまうと中々抜け出せそうにない。
別に自分がいつか死ぬのが怖いわけじゃない。そんなのは、やっぱり子供の頃から何回も考えたことで、僕は良くて七十、悪ければ三十歳くらいには死ぬだろうという予想はしてきた。
ただ漠然と、僕以外の人――とりわけ早死にするような連中じゃない人たち――は漠然と、七十くらいまでは生きるのだろうと勝手に考えていた。
だから僕は、これまで無責任でいられたし、何も気負うことなく生きて来られた。いや、逆だ。無責任で、何も気負うことなく生きていきたかったから、そう考えていたのかも知れない。


先日、僕の「特に死んで欲しくない人の一人」に、子供が出来た。
まだ生まれてはいないけれど、順調に行けば来年の春頃には生まれるらしい。
そんな彼も、ひょっとしたら僕より先に死ぬのかもしれない。
漠然と自分は結婚や出産とは無関係な人生を送るだろうと決めている――あるいはそう悟っている――けれど、子供が嫌いなわけではない僕は、きっと生まれてくる子の両親さえ許してくれれば、自分の子供のようなつもりで可愛がると思う。
自分の子供じゃないのに、まだ生まれて来てさえいないのに、男の子なのか女の子か気になっている有様だ。
なんなら多分同年代の友人の中では一番時間を作れる僕が、東映アニメフェスタを観に行く時に「パパもママも忙しいから、また今度ね」と言われて落ち込んでるその子と一緒に、東映アニメフェスタを観に行ったり、「パパの友達の、定職にも就いていない変なおじさん」として精一杯出来ることをしてあげたいと思ったり、北杜夫の「ぼくのおじさん」を思い出して「僕が憧れていたのはああいうポジションだったのか」と納得してみたり、遊園地に連れて行っておやつが食べたいと言われた時に、その時の僕は気前よく買ってあげられるくらいの金銭状況にはなっていたいなと考えたり、ああでも「ぼくのおじさん」的にはそこでなんだかんだ屁理屈を言って結局買わない方が良いなと思ったり、いやいやそれじゃ子供に嫌われてしまうのではと心配になったり、そんなことまで考えている。
けれど、その子だって、「いつか」死ぬ。あるいは僕より早く死ぬことだってあるかもしれない。とても嫌な想像だけれど。
そうなった時、僕はきっととても悲しいと思う。「とても悲しいと思う」としか言い表せないほど、悲しいと思う。


最近、幸せと不幸せは、プラスとマイナスの関係ではないということを、改めて思い知った。
−100に200を足せば、−100は消えて100になる。なんて、そんな簡単な物じゃない。
きっと、不幸を入れる皿と、幸せを入れる皿は別々に存在して、その両方が対極に近い位置で天秤に吊されているだけなんだろう。
その「幸せ」という皿の上だって、真ん中にステーキが乗っかっていて、端っこに付け合わせの野菜が乗っているように、多種多様、てんでばらばらな、色んな種類の幸せが乗っているのだと思う。
とても重い不幸せの反対に、とても重い幸せを置けば、一応の釣り合いは取れる。
けれど、釣り合いが取れたからって、「とても重い不幸せ」が消えてしまったわけじゃない。
それよりももっともっと大きくて重い幸せを置けば、とても重い不幸せは一見目に入らなくなって、目立たなくなるかもしれない。それでもやっぱり、消えてしまったわけではない。
天秤に大きな不幸せが乗っかったら、それよりももっともっと大きな幸せを乗せなければ、いつまでも大きな不幸せが目立つことになる。
けど、天秤には無限に物を乗せられるわけじゃない。いつかきっと、支えている棒は折れてしまう。
それまでに、幸せも不幸せもひっくるめて、なるべく沢山乗せられるのが、「良い人生」なんだと思う。
けれど、僕はそんなに重い物を乗せて生きていきたくない。幸せを手放すかわりに、不幸せも消えてくれたらな、と思う。
だけど現実には、やっぱり幸せの甘美さに酔って、生まれてくる子供に期待してしまっている。自分の子ですらないのに。
そしていつかまた、求めた幸せの分だけ、不幸せがやってくるのだろう。
オナニーやめたら体力も時間も浪費されること無くなるな、って頭でわかっていてもやってしまうのと同じように。


というわけで、別に絶望してるわけでも、自殺願望があるわけでもありません。
これで少しは答えになってるでしょうか。*1

*1:前のエントリに対して質問等があったため